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  戦争体験者の証言(第六期)
松林    −    2008/08/24-15:41:53
0010 真宗大谷派に続き浄土宗も戦争協力を反省 厚顔の美少年 11/21 12:19
 
asahicomは浄土宗(本山京都知恩院)が「近代の戦争に協力したことへの反省と歴史の検証に取り組む方針を盛り込んだ平和アピールを表明した」と報じている。http://www.asahi.com/national/update/1119/OSK200811190049.html

一方真宗大谷派(京都東本願寺)等はすでに近代戦争への協力を懺悔したことは周知のとうりである。その中でも特筆されるのは、真宗大谷派が2007年(平成19年)10月に岐阜県明泉寺で「復権顕彰大会」を開催し、1937年(昭和12年)に真宗明泉寺の僧侶であった竹中彰元(しょうげん)が村民・信徒・僧侶仲間に「戦争は罪悪である」と日中戦争を批判・説教し、反戦を唱えたとの理由での厳罰処分を謝罪し、宗務総長が処分取消しの「宗派声明」を出して、処分から70年目に彰元の名誉を回復したことであろう。このことは先般NHKのドキュメンタリー番組「その時歴史が動いた」でも放送されていたように思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E5%BD%B0%E5%85%83
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/takenakasyougenn.htm

今後浄土宗・浄土真宗とも末寺を通じて全国の檀家や信徒へこのような説教と広報が行われることを期待したい。
    
 
0009 Re: 戦争体験者の証言(六) 松林 10/30 15:35
 
戦争の被害がもっとも少なかった一家の昭和20年頃(6)

20年8月はじめ、身体を壊した私が勤労動員の作業を休んで帰ったのは、かつての私の家ではなかった。
藤沢の小さな借家だった家は、強制疎開(建物疎開)で壊され、後は道路になっていた。一家は故郷へ疎開した父の友人の家の一間を借りて住んでいた。荷物は納戸に詰め込み、日常の家具と一家6人、10畳に暮らしていた。妹たちはそこから軍需工場に作業に通ったのである。私はそこに帰ったのであった。

強制疎開(建物疎開)とは、官庁、病院、学校、交通機関などを焼夷弾などによる延焼から守るため、隣接している民家に役所の係員が強制的に令状を張る。持ち主や住人の意向に拘わりなく、国の命令として期日内に立ち退かせ、建物を壊して道路や空き地にした。 
我が家の場合は近くの日本精工という軍需工場にトラックが通れるよう路を広げるためだった。引越し代は出たとか聞いたが、さだかではない。

妹の同級生で平塚に住んでいた方は、たった一人のお兄さんがフィリッピンのルソン島で戦死、家はまさに8月15日に軍隊が来て壊し始めたところに終戦の詔勅があって、軍隊は直ちに引き揚げたが、あとには、屋根も壁も窓も床もなく、ただ大きな柱がぽつんぽつんと残っているだけだったと「戦争と湘南白百合学園の生徒たち」に記されている。

こういうことがあっても、国民は文句をいえなかった。すべて、「戦争に勝つため」で、「欲しがりません、勝つまでは!」とか、食べるものも着るものもほとんどないのに、「贅沢は敵だ!」などという標語がまかりとおっていた。

実は今の日本にも、米軍がここを戦車が通るのに邪魔だと主張したら、民家をつぶせる法律ができてしまっている。米軍支援法とか国民保護法である。
政府は内容を国民に周知させることなく、さっさとこういう法律を通しているのだ。 陸上戦で軍隊が国民を守らないことも、沖縄戦で証明済みである。 

いざというとき、国は「国家」を護ろうとする。しかし国民を護るつもりはないということを肝に銘じておきたい。、
    
 
0008 戦争の被害がもっとも少なかった一家の昭和20年頃(5) 松林 10/05 21:56
 
今回も標題から大きく脱線しますが・・・

筑摩書房の宣伝誌「ちくま」に、都市史研究家の鈴木理生氏の「いにしへ東京歳時記」の連載があり、その10月号(No.451) の『赤絨毯は秋景色』に、昭和一桁時代に帝劇でふわふわの赤絨毯を踏んで、最初期のトーキー映画を見た思い出などがかかれていたあと、次の一節があって驚いた。 

「だがわたしの女性の友達(複数)の戦時中の帝劇の思い出は、その赤絨毯を踏んで米本土攻撃用の『風船爆弾』の製造に動員されていた『工場』としての思い出である」

風船爆弾のことは、数年前、登戸研究所を見学した時に、そこで研究されたこと、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせた大きな風船に爆弾を吊り下げたもので、その風船は女学生たちが貼ったこと、9000個飛ばしてアメリカ本土には5個ぐらいしか届かず、戦果としては、一個がオレゴンでピクニック中の牧師一家5人を殺したこと、小さな山火事が何箇所かあった、ことくらいしか知らなかった。

そこで、昨年入手しながら読んでいなかった桜井誠子著『風船爆弾秘話』(光人社、2007年4月)をひもといてみた。 著者は、生徒が川崎の東芝富士見工場で風船爆弾作りに動員されていた横浜共立学園に勤務されている。


風船爆弾とは、ごくごく大まかに言うと、和紙をこんにゃく糊で張り合わせた直径10メートルほどの気球に、高度維持装置、バラスト、投下弾を吊り下げ、8000〜12000メートル上空を時速200から300キロの偏西風に乗せて、バラストを落として高度を調節しながら2日ほどかけて、アメリカ本土に到達し爆弾を落とした後気球も燃え尽きるようにつくられたものだという。
 
大まかにといったけれど、無人の気球がこれだけのことをするように作るというのはとても考えられないものすごい研究、技術による。

この本は、その構想から実験、研究者の陣容、製作に従事した人々や実験の様子、動員学徒たちの仕事内容、親兄弟にも漏らすなといわれた仕事の内容、などを、現地に足を運び、当時従事した人達の証言を聞き、膨大な資料を調べて書いている。

以下その本から・・・

風船爆弾つくりに動員された学校は、全国に散らばり、早稲田、明治両大学のほか、東京工専、八女、小倉、山口から、名古屋、磐田、横浜、山形、岩手県水沢などの名があがっている。

横浜共立女学校の生徒が動員されていた東芝富士見工場の仕事については詳しく述べられ、4月10日の機銃掃射の後、15日深夜からの空襲で東芝の工場も灰燼に帰して彼女たちの風船爆弾つくりは終わった。
その日、山形から動員されていた女学生5人と教師1人が、3人は艦載機による銃撃によって、1人は焼夷弾の直撃で、後二人は地理がわからず逃げ惑って、煙に巻かれて黒焦げになって亡くなった。
        
それにしても帝劇が工場にとは!?と他にないか探してみたら、京都祇園の歌舞練場と弥栄会館も工場になり、花街が閉ざされて仕事がなくなった舞妓、芸妓が風船爆弾つくりをしたという。

放球された9000個のうちアメリカ本土に落ちたと確認されたのは285個で人を殺したのは前述した1個だけだという。

かかった費用は一個1万円・・・当時米1キロ4円・・・であったという。 学生たちの労働に対して支払われたかどうか、支払われたとしてそれが計算に入っているかはわからない。    
 
0007 戦争の被害がもっとも少なかった一家の昭和20年頃「(4) 松林 09/30 00:27
 
標題からは少しそれますが・・・

横浜の青葉区と町田市にかけて広大な「こどもの国」がひろがっている。
1965年、皇太子(現天皇)のご成婚を祝って開設されたもので、90ヘクタールの敷地に、野鳥の森、白鳥湖、牧場、キャンプ場、サッカー場、アイススケート場、食堂、などなどがある、まさに子供が一日中でも楽しめる天国である。

ここに、戦時中何があったかを知る人は少ないと思う。
手元の辞典などにも記されていない。ほど近いところに住みながら、実は私も知らなかった。最初に知ったのは、多くを引用させてもらっている「戦争と湘南白百合学園の生徒たちーー旧乃木高等女学校のころ」にあった手記からだったと思う。

まずは朝日新聞の2005年5月1日の神奈川版の「弾薬庫眠るこどもの国」に添えられた説明を引用する。

「田奈部隊・正式名称は『東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所』。 約一平方キロの敷地に、弾薬工場や弾薬庫があり、弾薬を組み立てる『填薬』、完成弾を貯蔵する『格納』、現地部隊へ発送する『補給』の役割をになった。軍人や徴用工、学徒勤労動員など最大約三千人が終戦まで弾薬つくりに従事したとされる・・・』      
ここに、神奈川高女、県立横浜二中、フェリス和英女学校などの生徒が動員されていた。

以下は、フェリスから乃木に転校してきた後輩の手記、そこに引用された神奈川高女の生徒の著書、それと前述の朝日の記事からまとめたものである。              
生徒たちは横浜線の長津田駅に集まり、そこからトラックの荷台に詰め込まれて田奈まで運ばれ、作業に従事していた。 
公にはされなかったが、昭和19年11月30日、中学生を乗せたトラックが横転して川に転落、多くの死傷者を出した事故があった。なんともむごい事故である。
勤労動員に関係した学校が合同して、50回忌の法要もあったとのことである。   

                                      弾薬工場での生徒たちの作業は、火薬を入れる袋縫いから始まって、火薬を量ったり、詰め込んだり、手榴弾の仕上げなどをしたという。一週間泊り込みで作業した時は、4キロぐらいの砲弾を梱包して運ぶという怖い作業もさせられた。火薬を吸い、手足がだんだん黄色に変色した。 一日の作業を終わると丼に入れた茶色の水が与えられ、回し飲みしたがそれは解毒剤だったとあとで聞いたという。
  

こうして迎えた8月15日、田奈部隊は解散し、本部職員と軍人には、米軍が上陸した時のために手榴弾が配られた。

数日後、部隊の将校夫妻が、白装束で倉庫ないで手榴弾で自決した。 部隊についての資料や記録の大部分は焼却されたという。


朝日の記事は、当時の女学生4人とこどもの国を訪ねた報告である。 

33箇所あった弾薬庫は多くは埋められて、10箇所が倉庫や見学用に残されていた。 
その一箇所に案内して貰う。

「高さ約2メートルのさびた鉄の扉を開けると冷気が吹き出す・・・・天井の木は朽ちてぶら下がり、足元には約20センチの薬莢が数本転がっている。懐中電灯で照らすと、コンクリートの壁が所々変色し、水滴がぽたり落ちてくる」とあった。        
 
0006 Re: 戦争体験者の証言(第六期) 名無しの探偵 09/28 19:59
 
松林さんの「戦争体験者の証言」を読みその感想は多くはないが現在取り組んでいる
戦争体験の本と戦後に関する本などの感想を記す。(前回は自分のパソコンが突然
故障となったが)
戦後生まれのアプレゲールのアプレにとって戦争体験のどれもが個別具体的なもの
であると同時に共通点を持っているということである。
憲兵に友人知人の告発をするように協力を求められた少女や乃木将軍の名前に自主的に変更させられた学校の例などは個別的でもあるが一般的でもあるといえる。
表面的な違いを超えてファシズムの状況が強化されてくる時期に当りね戦争の泥沼が内地にも反映されているということだと思われる。
戦争が目前に迫っていない大正時代には憲法の解釈も「天皇機関説」(美濃部)で
おおむねよかったが戦争前夜になるとその見解の主体である美濃部氏は右翼の政治家に国会で非難され最後は自宅にピストルを持った右翼が乗り込んでくるという始末だった。
(どうもパソコンがおかしいので中断します。上記の著書名だけ引用。戦争体験の本は丸山静雄著:96歳でなくなった:「典範令と日本の戦争」。戦後の本は「敗北を
抱きしめて」です。)












    
 
0005 戦争の被害がもっとも少なかった一家の昭和20年頃 3  松林 09/25 00:36
 
(2)で書いた母校の後輩が作った冊子の中に憲兵のことを書いた手記があった。

一人は作業中に教師によびだされて憲兵を紹介され、協力するように言われる。
憲兵は彼女を別室に連れて行き、工場内の戦争反対者を告発しろと申し渡す。

周囲の生徒たちにはいなかったが、同じ部屋で働いていた大人たちの中には、この戦争はもう負けだなどといっている人達もいたが、知らないといってもしつこくくいさがってくる。考えて別の話を喋りまくったら、わざわざ家までやってきて、娘に協力させろと母親にいう。母は、親類に憲兵少将〔実はすでに亡くなっていた)がいるから相談するといったら、それからはいってこなかったとか。

もう一人は、憲兵が書かせたとは知らずに書かされた感想文に、通勤の列車の中で「もう日本は負けるなあ」と話しているのを聞いて、そういうことは言ってほしくないといったことを書いた。すると憲兵に呼び出され、誰が言ったのか教えろと迫られたという。応えないでいると何日も憲兵に呼び出されて同じ質問をされ、しまいにはいつも一緒に通っている友達まで呼び出されて大変迷惑をかけてしまった、また、家の近所にもそういうことを言う人はいないかと問いかけたとも。

後者の場合はその後のことは書いていない。

ただ、この体験をしたのは、14歳くらいの時で、書いているのは終戦後50年以上たっている、つまり60歳を超えている、ということを頭に入れて読んでいただきたいと思う。

前者は、なぜ私にこんなことをさせたのかと先生を多いに恨んだが、今考えてみるとカトリックの学校はとかく異端視されていたし、当時の憲兵にいいつけられれば先生はとても断れなかったのだろうと書いている。

当時は、労働運動も法的に認められていなかった、つまり牢屋入り覚悟でなければできなかったし、マルクスの資本論が本棚にあっただけでも捕まったという時代だが、まさか「日本が負ける」といった言葉で勤労動員の14歳くらいの少女に憲兵がそういう対応をしたとは知らなかった。実際に、たとえばその工場で、その憲兵が捕まえた人があるのかどうかは知るよしもない。

憲兵と特高。まさに「物言えば唇寒い」時代であった。    
 
0004 戦争の被害がもっとも少なかった一家の昭和20年頃(2) 松林 09/20 01:54
 
私が学校工場で昼夜3交代で働いていた頃は、滅多に藤沢の自宅にも帰れませんでした。

休みがほとんどなかったのか、空襲による被害で国鉄〔当時〕が寸断されていたためか、今ははっきり覚えていませんが、多分両方だったと思います。

そのため妹たち〜直接聞いたことはありませんでした。たまに家に帰っても、家族にとっては日常のことなので、話題にのぼらなかったのかと考えたりしています。
それを知ったのは、出身の女学校の同窓会が、1999年に「戦争と湘南白百合学園の生徒たちーーー旧乃木高等女学校のころーー」という冊子を作り、それをよんでからです。ここではそれを使わせていただきました。

高等女学校3年(今の中学3年)の妹は、横河電機に動員され、計器のコイル巻きをしていましたが、身体を壊して休学しました。親友は結核にかかって終戦直前に亡くなったのですが、お見舞いにもいけなかったと終生悔やんでいました。
戦後にだいぶ遅れて転居先の高校に入ったので、乃木の卒業生ではありません。

同じく4年だった妹は東京螺子という工場でベンチレースという機械を使ってネジに溝をつける作業をしていたそうです。 3時頃にひしゃく一杯の雑炊がだされたのがほっとするひと時だったとか。といっても今の雑炊とは桁が違い、ほとんど水の中に米粒や野菜が浮いているものだったようですが。
服装は、カーキ色の上着ともんぺにゲートルを巻いていたとあります。

両工場には、湘南中学や藤沢中学など近辺の学校だけでなく、千葉県の安房中学や東金高女、福島県の棚倉高女などの生徒たちも動員されていたとあります。通勤は無理ですからどこかに集団で宿泊していたと思われます。ろくに食べ物もなかったでしょうに。
 
ちなみに1,2年生は学校の教室で,護東兵団第22052部隊の将校の軍刀の鞘を作る作業をしていました。鞘に漆を塗る作業ではほとんど全員漆にかぶれ、ひどい人は内臓に影響し、ドクター・ストップがかかったとも。

また、当時の5年から3年生は、軍需工場で働く前、授業の合間に学校近くの松林で松の根堀りをしました。
石油不足を打開するため、海軍が松根油計画に着手し、農商省は昭和19年10月に松根油緊急増産大綱を発表して全国民がかりだされ、日産1万1000キロに達したが、空襲で無駄になったり、精製したものも結局は質が悪くてエンジンには使えなかったという落ちがついています。

もう一つ当時の雰囲気を。
私が卒業したのは乃木高等女学校、現在は湘南白百合学園となっています。昭和13年に聖パウロ修道女会が開設したもので、すでに函館、東京、仙台などに姉妹校がありまし。それがなぜ乃木かというと、カトリックは当時何かと当局から目をつけられていて、、開設の条件もきびしかったので、乃木将軍が明治時代に学習院長だった時代に生徒を引率して野営した地だからつけたということです。

すべて、本当に狂気の時代でした。

    
 
0003 Re: 戦争体験者の証言(第六期) 松林 09/16 22:45
 
0002のあとがきの文章を書いているうちに下の部分が抜けてしまったことに今気がつきました。

「私が勤めていたのは小松川高校(旧府立第七高女)の定時制でした。そこの生徒たちは「家庭の事情」で昼間勤めて夜登校する生活でした。さん八師匠の話の地域ですから、彼らの家庭の事情はほとんどが空襲によるものだったはずです」
    
 
0002 柳家さん八師匠の「東京大空襲} 松林 09/14 23:03
 
地元の平和を語り継ぐ集会の最後に、表題の語りをききました。
さん八師匠が生後5ヶ月で3月10日の空襲にあい、おばあさんから繰り返し聞いたそのときの話を『実録話・東京大空襲』という話にまとめられたものです。

      *        *         *      

一回目の空襲警報のときは、2機が来たが爆弾を落とさず引き返した。探知機に引っかからないように金属の粉をまいたらしいという。
そしてみなが寝床に戻って眠っている時、警報も鳴らないのにものすごい爆音に目を覚まされた人達が見たのは空を覆わんばかりのB29の大群で、焼夷弾を落としていた。

師匠の父は警護団に詰めていたが、家が危ないからとい返された。
家に帰り着くと、防空壕に入れといっておいた家族は押入れにもぐっていた。祖母がリュウマチで歩けななかったからだという。
父が祖母を背負い、母が生後5ヶ月の赤子を背負って防空壕に行ったが、満員だといれてくれない。 他の防空壕を3,4箇所まわったが、どこも満員では入れなかったので、仕方なく燃えさかる町を逃げ回ってやっとの思いで中川の橋に辿り着き、橋の下で震えながら夜を明かした。 

明るくなって見ると、あたりは一面の焼け野原になっており、中川には沢山の死体が浮いおり、道には焼死体がころがっていた。それらをまたぎながら、生きている人一人いない中を歩いていってただ一人出会ったのは、前夜千葉に芋の買出しにいっていたという人だけ、彼の家族は全滅だという。
防空壕の人達はと聞くとみな蒸し焼きだという・・・・

     *         *          *

実はこの話は、私が戦後の昭和25年から4年間勤めた昔の府立第7高女の近辺の話で、師匠は第7高女の近くに住んでいたとのことです。
そのことを知らずにお話を聞いていたので言葉も出ませんでした。

その時の生徒たちは師匠より10歳ほど年上、当時疎開していたとか、学童疎開からもどって空襲にあったひとたちです。 
大学にかよう時も、その高校に通勤する時も、まだまだ焼け野原が多かったのに、空襲にあわなかった私が、実際に空襲を受けたひとたちの痛みを少しでも考えるようになったのは半世紀ちかくたってからです。 同じ時代に生きていたのに。
    
 
0001 戦争体験者の証言(第六期) 松林 08/24 15:41
 
身内に戦争に行った人もなく、空襲にあったこともない、つまり戦争の被害がもっとも少なかった一家の昭和20年頃(1)

私は昭和19年、津田英学塾(18年3月から津田塾専門学校と改名)の予科を受験した。4月に入ってみると,予科は廃止され外国語科の1年ということになっていた。つまり4年間の予定が3年に短縮された。
すべて文部省の指示である。

この前後の学徒勤労動員に関する法令のいくつかを挙げておく。

学徒戦時体制確立要綱  昭和18年6月 閣議決定
 学校報告隊の待機姿勢を強化(隊組織に編成)、勤 労動員の強化
緊急学徒勤労動員方策要項  19年1月 閣議決定
 通年動員の路開き、学校工場の方式つくる
決戦非常措置要項(情報局発表)19年2月閣議決定
 通年動員学校工場化の推進
 (決戦の現段階に即応し、国民即戦士の覚悟に徹し  国を挙げて精進刻苦その総力を直接戦力増強の一  転に集中し・・・)             

男子の専門学校生、旧制高校生、大学生はすでに召集されていたし、少年航空兵などにはもっと若い人達も入っていた。 
      
こういった流れの中で、「敵性外国語」を学ぶために入学したのだった。 

津田塾は19年3月、日立航空機(株)の立川製作所と契約して、学生食堂と体育館が工場になっていたが、新入生ははじめ半年ぐらいは授業もしながらナット磨きなどの軽作業をしていた。

3年生が年限短縮で9月に卒業した頃から急速に生活が変化していった。(残念ながら正確な日時を記憶していない)
校舎と西寮に軍隊が入った。したがって西寮生だった私たちは東寮に移らされた。それでも兵隊たちはきびしく言われていたのか問題はおきなかった。

工場作業が本格的になり、日勤、夜勤、深夜勤の3交代性になった。ミリング、ボーリング、旋盤などという大きな機械を扱って、確かピストンとかいった飛行機のエンジンの部品をつくった。おしゃか(不良品)という言葉を覚えたのも」この頃である。

空襲があると自分たちで掘った校庭の防空壕に退避して警報の解除を待った。出てみると東京の空が真っ赤だったことがしばしばある。同級生でも家が3度も空襲で焼けた人もいた。

この頃の生活で辛かったのはまず飢えである。 ジャガイモの茹でたのを二つだけとか、お丼に黄色い汁が入っていて、米粒と人参や大根が浮かんでいたカレーなどを覚えているが・・・常に空腹だった。
寒さも辛かった。 当時としてはハイカラな鉄筋コンクリート作りだったが何せ暖房がない。(スチームの装置があったのだが金物の供出で撤去されていた)窓からつららが下がっていた。いつ空襲があっても飛び出せるように服を着たままで寝ていた。余分な下着もセーターなどももちろんなかった。石鹸もなかった。

こういう生活が敗戦の日まで続いたのだが、私は肺門淋巴腺とかで敗戦の数日前に家に帰らされた。 

    
 
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