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なださんの言葉を受け止める
アキレスの亀
−
2005/01/16-12:24:48
なださんの発言に関する感想や意見を書いていきたいと思います。
0028
>Re: なださんの言葉を受け止める
アキレスの亀
02/05 12:45
>アキレスの亀さん、絶えて久しい……の思いで読ませて戴いております。
>0026>最低限と呼ぶにはちょっとハードルが高いかも。
>〜それだけこの国の民のレベルは下がり果てたということなのでしょうか。国会中継を見ただけでも頷けるように。
>
百山さん、レスをありがとうございました。
僕は、ディベートというものを「議論」に含めるかどうかを迷っています。それを水準の低い「議論」と呼ぶのか、それとも本当の意味では「議論」ではないと考えるのか、迷うところです。
今の国会で行われているのはディベートに過ぎないと思っています。ディベートというのはゲームだと思いますから、目指すのは勝ち負けで勝つことです。正しさはさほどの価値を持ちません。
ディベートの訓練も、論理能力を伸ばすのに役立つという意見もあります。しかし、僕には弊害の方が大きいような感じがします。
「議論」というものを、「対立した意見の交流」という単純な定義にとどめれば、ディベートもその中に含まれ、それの質が高いか低いかという違いになってくるでしょう。しかし、「議論」の定義に、「論理的に正しいものを求める」という目的を入れると、ディベートは「議論ごっこ」という遊びにしか過ぎないと言うものだと考えられます。どちらの定義の方が有効性を持つかは、難しい問題だなと思います。
0027
Re: なださんの言葉を受け止める
百山
02/05 10:48
アキレスの亀さん、絶えて久しい……の思いで読ませて戴いております。
0026>最低限と呼ぶにはちょっとハードルが高いかも。
〜それだけこの国の民のレベルは下がり果てたということなのでしょうか。国会中継を見ただけでも頷けるように。
0026
最小限(最低限)のマナー
アキレスの亀
02/05 10:04
11月16日付け『打てば響く』「掲示板というもの」を読んでいます。ここでは次の言葉が目に入りました。
「掲示板は日本には現実にはない架空の自由な広場だ
というのがぼくの考えです。
そしてそこで自由に意見を交換したり、議論をしたりするためには、
いくら広場でも、立小便(大は論外)に類することはひかえてもらいたい。
でも、それは最小限のマナーというものです。」
ここでなださんが語っている「最小限のマナー」というものがどういうものであるかを考えたくなりました。なださんは、これを具体的には語っていませんが、次に
「自分がしてほしくないことは他人にもしない」これが原則です。
あとは自由。」
と語っています。具体的な行為が、このマナーに違反しているかどうかは、この原則に照らして考えるということだろうと思います。そうすると、ある行為を自分がいやだなあと感じたら、その同じことは自分ではやらないということを原則にしなければなりません。そういう常識的な判断が出来る人が多数派を占めれば、掲示板は秩序あるものになるでしょう。
しかし、現実には、自分ではマナーを守っていても、そうでない人が多数を占めてしまう時があります。このような時に、免疫性がないと、自分だけマナーを守って我慢していることがばからしくなってしまいます。つい感情にまかせて、同じようなことをして気分をすっきりさせたくなる衝動が起きてきます。でも、そうするとなださんの原則を守れないことになりそうです。
そこで僕は、発想を変えることにしました。なださんが語っていることを論理的に書き換えると、次のような仮言命題になります。仮言命題とは、「〜ならば」という形の言い方です。
自分がしてほしくないこと →(ならば) 他人にもしない
これが原則ですから、自分はこれを守ることにします。そして、これを原則にするということは、この命題が正しいと判断することになります。そして、論理法則として、この命題が正しければ、その対偶と呼ばれる
他人にすること(他人にしない、の否定)
→(ならば)
自分がして欲しい(自分がして欲しくない、の否定)こと
という仮言命題が正しいことになりますから、この仮言命題に従って行動することにしました。僕自身は、欠点をあげつらったりして罵倒するのは、して欲しくないことですから、こちらからわざわざそんなことをしたりしません。でも、インターネットでは、そのような行為をしている人間を時々見かけます。
そうすると、その人は、他人にそういうことをするのなら、そういうふうにして欲しいんだと解釈することが出来ます。不特定多数の「ある人」に対しては、僕は罵倒するようなことはしませんが、他人に対してそういう行為をする「特定の人」に対しては、きっとそうして欲しいのだろうと考えて、大いに罵倒してあげることにしました。
ただ罵倒する方法として、誹謗中傷のようなやり方は、そういうことをしている連中と同じレベルに自分を下げることになるので、誹謗中傷にならない方法で罵倒することを考えました。これは、「反デューリング論」に学ぶのがいいだろうと思いました。
「反デューリング論」というのは、エンゲルスが行った、デューリングに対する罵倒だと僕は解釈しています。そこには罵倒の言葉はほとんどありませんが、デューリングがいかに間違っているか、いかに頭が悪いかということが徹底的に論証されています。「バカ」という罵倒の言葉を使わずに、相手がいかにバカであるかを説得的に書いてあるという感じです。
これなら品位を落とさずに罵倒が出来ると思いました。そこで、相手の欠点というものを、論理的な部分に限定して、そこを徹底的に罵倒することにしました。だいたいが、誹謗中傷に近い言葉で相手を罵倒する人間というのは、論理的に相手を否定することが出来ないので、せめて文句の一つもいって溜飲を下げようとしているので、論理的な穴を指摘するのはたやすくできます。
僕の場合は、エンゲルスと違って「ゴミ」という罵倒の言葉を使ったので、少々品位を下げたかも知れませんが、基本的には論理的な欠点を指摘して罵倒するというやり方だったので、相手と同じ水準までは下がらなかったと思っています。論理能力が低いという指摘で罵倒する方法をとりました。
そうやった結果として分かったことは、相手を罵倒する人間も、自分が罵倒されるのは嫌いだということでした。ということは、そういう人間は最低限のマナーを否定する人間だということを意味します。こういう人間は、議論をする資格のない人間だと僕は思います。
議論をする資格のない人間は退場させるのが正しいと思います。退場させる機能がついている掲示板だったら、すぐにでも決断すべきでしょう。そうでない時は仕方がありませんから、その非常識をさらしておいて、それが非常識な「ゴミ」であると分かる人が集うことを期待するしかありません。その期待がかなわないのなら、それが今の状況あるいは水準だと現状認識するしかないのではないかと思います。
僕は、楽天広場という日記の交流をする「ブログ」(これは形式的にはブログですが、ブログとしての機能を果たしていないのでカッコ付きにしてあります)で、現在の水準は非常識を駆逐できる水準ではないなというのを感じています。また、楽天広場は、非常識を制限できるような機能もついていないので、「ゴミ」は放っておくしかないような状況です。
楽天広場は、ブログとしての機能も不十分ですし、現状のレベルが低いので、何らかの主張を持っている人は、やがてここから他のブログへ移っていくのではないかと思います。
なださんは、最小限のマナーを具体的には語っていませんが、僕は、議論のための最小限のマナーを次のように考えています。これが守れないような人間は、議論をする資格がないと思っています。
1 相手の発言を、相手の立場で理解する。
これは、議論をしたいと思って呼びかけた方がまず努力することです。議論をするつもりがなければ、相手の発言を自分の立場で理解してもかまいません。それは、たぶん相手の発言が間違っているという結論になるでしょう。そういう判断は、相手に関係なく勝手に主張すればいいことです。それをわざわざ相手に言うのだったら、まず言う前に、相手の立場で相手の発言を理解することをしなければならないでしょう。それでもなお、相手の言うことに反対で、しかもそれをぜひ相手に伝えたいという気持ちがなくならなければ、その時初めて議論の相手を申し込むと言うことになります。
このことが最低限のマナーです。それがない人間は、議論などするべきではないでしょう。だから、僕はほとんど自分から誰かに議論を申し込むと言うことをしません。僕は議論をするのではなく、自分の考えを主張するだけです。
2 疑問の提出と議論は違うと言うことを理解する。
疑問の提出というのは、議論ではありません。議論というのは、相手の提出する結論に反対の考えを持っているところから、どちらの結論に妥当性があるかを争うものです。疑問というのは、文字通り「分からない」と言うことです。これは分からないのですから、分かるようになるために聞くだけのものです。
これはディベートの手法なのかも知れませんが、よく疑問の形で相手に聞きただしておきながら、その答を理解しようと努めるのではなく、答の中の末梢的な部分の揚げ足をとって文句をつけてくるものがいます。これは最低限のルールを知らない人間がやることです。
こういうやり方で議論を仕掛けてくる人間にはまじめに答える必要はありません。退場させてもいいでしょう。
3 議論をしたいのなら、相手の批判だけでなく持論を展開する。
これは、議論をしたいのでなければ、単に自己主張として批判だけで終わってもかまわないと思います。僕などは、権力批判をしますが、権力の側と議論をしたいのではありません。それは、おそらくかなわないことでしょうし、権力の側に対しては、批判そのものに意味があるのだと思っています。
しかし、議論をしたいのなら、批判だけで済ませるのではなく、その批判の結果としての持論を展開すべきでしょう。そうでなければ議論にはなりません。批判だけで持論の展開がなければ、相手は批判するけれど、自分は批判させないと言っているようなものです。そういうものは議論ではありません。議論というのは、相互に批判できてこそ議論だと思います。
僕が楽天広場で仕掛けられた議論も、持論を展開しているものがほとんどありませんでしたが、批判そのものが的はずれで批判できるものだったので、その論理水準の低さを批判しました。しかし、それは全く建設的な議論にはなりません。持論を展開しない議論は、発展しない議論です。全く無駄なものになるでしょう。
以上の3つのマナーは、最低限と呼ぶにはちょっとハードルが高いかも知れません。しかし、僕は、このハードルを越えない議論は議論として価値がないと思っています。このようなハードルを越えられる人と、実りある議論をしたいものだと思います。
0025
11月2日付け『打てば響く』「原点に戻る」
アキレスの亀
02/03 23:50
11月2日付け『打てば響く』「原点に戻る」(
http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=81;id=#150)を読んでの感想で
キ。ここでは、イラクで殺害された香田さんをめぐる議論についてのなださんの考えが語られています。僕は、掲示板の議論がどうなったのかは直接は知りません。なださんの言葉から想像するだけです。次の言葉からそれを考えてみました。
「かれの死だけを取り上げて論争しても実りはない。
この問題をイラク戦争の原点にまで戻って考えてみよう。」
彼の死だけを取り上げる論争というのは、個別の問題に還元してその解釈を論じるような論争ではないかと想像しました。それは、一方ではそのむごさに憤慨する感情からの解釈かも知れません。また、権力の立場に立った解釈で、やむを得ない犠牲だというふうに考えるかも知れません。「自己責任」を言い立てる人もいるかも知れません。
これは、解釈である限りでは、いくつかが並立しうるものになると思います。もちろん、妥当性という点で差があるでしょうが、その妥当性の判断も立場によって違ってくるだろうと思います。最終的には「見解の相違」ということになるのではないでしょうか。
個別の問題は、ある具体的な事実にかかわる問題だと思いますが、それは、何が正しいのかは分からない問題ではないかと思います。強いていえば、自分はどの立場をとるのかということを表明して、自分の選択を宣言することに意義があるのではないかと思います。それ以外は、自分の正しさを論じても、相手の間違いを論じてもあまり意味がないような感じがします。自分の立場から考えれば、自分の考えが正しいのは当然ですし、相手が間違っているのも当然です。でも、相手の立場に立つと、それは必ずしも言えないことになるので、相手を説得することは出来ないでしょう。
こういう相手との、個別的なものに関する議論は、立場の違いが理解できたら、それ以上やる意味はないと思います。最初から立場の違いが分かるようであれば、議論をする必要はありません。個別具体的な事柄に関しては、立場を同じくする人としか議論にはならないでしょう。だからこそ、なださんも「実りはない」と言っているのだと思います。
もう一つの「イラク戦争の原点にまで戻って」と語っている内容は、僕は「普遍性」を求める議論だと想像しています。個別的なことは「見解の相違」に落ち着いてしまうだろうと思いますが、「普遍性」をめぐる議論は、「正しさ」を目指す議論になりうると思います。それこそが、なださんが語る「本当の論争」になるのではないかと思います。
「普遍性」の問題として考えるというのは、個別のイラクだけにかかわる問題ではなく、その判断が似たような状況の他の場合にも妥当に当てはまるかどうかという問題として考えると言うことです。なださんは、イラクで行われているゲリラ的な活動をどうとらえるかという問題を普遍的な問題にしようとしているように見えます。
このとき、普遍性をとらえる方法としては、「相対化」という観点を用いているように感じます。自分の立場からだけ考えるのではなく、「イラク人の身になってみよう」と呼びかけていることからそれを感じます。そして、自分の立場で正当だと思っている事柄を、イラク人の立場でも正当だというふうに考えてみよう、という提案をしているように感じます。なださんは、次のように語ります。
「自衛隊容認派の人たちは、外国が攻めてきたときに
武力で抵抗するために自衛隊が必要だといってきた。
その人たちは、イラク人のゲリラ的抵抗を認めないのだろうか。」
国家には自衛権があると主張する人たちは、その論理を使えば、「イラク人のゲリラ的抵抗」も、自衛権の行使だと認めなければならないのではないかという主張です。これは、個別のイラクの問題ではなく、普遍的な論理の問題です。また次のような指摘はどうでしょう。
「圧倒的武力を持ったアメリカ軍に対応するのはゲリラ的方法しかない。
しかし、ゲリラ的抵抗するものをテロと呼び、
そしてかれらが隠れていると思しきところに爆弾を落とし、砲撃する。
市民を巻き込まずに、爆弾を落とすことなどできるはずがない。
むしろ市民の犠牲を見越し、それゆえに
ゲリラに抵抗を断念させようとするのが爆撃だ。」
これは、ゲリラ的攻撃が卑怯だと主張する人たちに、それではアメリカがやっている正規軍の作戦は卑怯ではないのかという問いかけだと思います。個別にゲリラのことを問題にするのではなく、ゲリラを非難する論理を、アメリカ軍にも適用しなければならないという普遍性の問題です。
僕は、このなださんの文章を読んで、つい最近見たケビン・コスナー主演の「ポストマン」という映画を思い出しました。理不尽な暴力に対して、絶望的ながらも抵抗に立ち上がったポストマンに対して、暴力的な支配者は、その暴力で無抵抗の人々を殺戮します。そして、その人々が殺されるのは、ポストマンがいるからだというふうに宣伝するのです。
ポストマンがいなければ、その支配者は暴力をやめるかも知れません。しかし、理不尽な支配は続くでしょう。映画のポストマンは、「テロ行為」に類することは全くしません。だから、どちらが卑怯な手を使っているのかは観客には明らかです。僕には、この映画の「悪人」たちがイラクで理不尽な残虐行為を行っているアメリカ軍に重なって見えました。
「むしろ市民の犠牲を見越し、それゆえにゲリラに抵抗を断念させようとするのが爆撃だ」という行為は、「ポストマン」という映画に出てくる悪人たちとどこが違うのだろうと思います。全く卑怯な行いのように見えます。
このアメリカ軍の行為が卑怯な行為に見えるというのは、個別具体的な問題に対する僕の解釈なので、これは「見解の相違」で賛成できない人もいるでしょう。だから、この解釈に対して、「見解の相違」がある人と議論しても仕方がありません。
しかし、強大な軍事力を持った権力は、このように市民を巻き添えにする戦法を常に行ってきた、ということを普遍的な性質として考えると、個別の問題が普遍性の問題になるのではないでしょうか。なださんは、
「急に太平洋戦争に戻るが、日本の東京大空襲などは、
市民の犠牲によって、軍部に圧力をかけるという意図の例であった。
アメリカの将軍の中には、アメリカが戦争に負けたら、自分たちは戦犯だな、
と自嘲的に話していたものもいた。」
と、東京大空襲を例に挙げて、このことの普遍性を語っています。これがいかに理不尽なものであるかというのは、個別性を超えて主張できるのではないかと思います。
議論の方向を常に普遍性の方へ導いていくことが、「本当の論争」への道ではないでしょうか。なださんの文章を読んでそう感じました。
0024
議論の前提の合意
アキレスの亀
01/31 09:18
なださんの11月16日付け『打てば響く』「掲示板というもの」の中に、次のような文章があります。
「テロリストという言葉はレッテルのための言葉です。
レジスタンスという言葉は、レッテルではありません。
主張の言葉です。
その違いがあります。」
これは、僕には「テロリスト」という言葉を定義したもののように見えます。そして、この定義を認めるならば、次のなださんの主張
「ただ、レジスタンスの名の下に、なんでもやっていいか、
となると、レジスタンスの仲間の間でも、意見が分かれるでしょう。
ぼくは非暴力不服従というガンジー的手段を、
レジスタンスの方法として選ぶでしょう。」
と言うものに対して、賛成か反対かという議論が出来るのだと思います。もし、これが「テロリスト」という言葉に関する合意がないまま、例えばイラクでの反米勢力をすべて「テロリスト」と呼ぶ人とやりとりをしても、前提が食い違っているので、どこかで判断が違ってきても、論理的には仕方がないという感じがします。その判断が妥当かどうかは、前提が違うと議論が出来ないだろうと僕は思います。
実際には、「テロリスト」という言葉は、政治的な言葉であって、何かの対象を「テロリスト」と呼びたい人がそう呼ぶ、と防衛庁関係の軍事専門家でさえもそう語っていました。つまり、まともな研究者だったら、「テロリスト」という言葉には客観的な判断基準はないと言うことが常識なんだろうと思います。まさになださんが語っているとおりです。
僕は、前提の違う相手が議論をふっかけてきた時は、その前提が違うということを指摘して、議論にはならないということを言って、議論そのものを拒否します。あなたは、あなたの前提で勝手に主張してください、ということを言います。ただし、僕はその前提に合意できないので、賛成することはあり得ないでしょうし、僕は僕の前提で勝手に自分の主張を書くだけです、というようなことを語るでしょう。
そのどちらを受け入れるかは、まさに第三者が自分で判断すればいいだけのことだと思います。難しい問題では、全ての人が受け入れられるような答などないと思います。だから、難しい問題を考えたい人間は、なかなか賛成してもらえないと言うことを覚悟して自分の考えを表明しなければならないだろうなと思います。
ただ、その前提に合意してもらえる人がいたら、その考えを深めていって、難しい問題も解決の方向が見えるかも知れません。インターネットで、自分の考えを表明するというのは、そのような価値があることなのではないかと思います。
「学力が落ちた、いや落ちていないの論争する方たちにも、
考えて欲しいことがあります。
学力とは何かを定義したうえで、
落ちているかいないか、を議論してください。」
というなださんの言葉も、議論の前提となる「学力」という言葉の定義を共有しましょうという呼びかけに僕には聞こえます。この前提が違っていたら、「学力が落ちた」という判断そのものが違ってくるでしょう。その判断の結果だけをぶつけ合っても不毛な対話になるだけだと思います。
なださんは直接「学力」の定義を語っていませんが、「何のための学力か」ということを言っています。これは、「学力」の定義には多様性があるというふうに僕は受け取りました。目的によって、それに必要な学力には違いがあると言うことだと思います。これを前提として、その先の議論を考えることが出来れば、「学力が落ちた」という判断も共通のものを持てるのではないかと思います。それが出来て初めて、議論は議論としての意味を持つのではないでしょうか。
「学力」を「暗記能力」だと定義するなら、それはかなり落ちていると言えるのではないでしょうか。しかし、これは何を目的とした学力かと言えば、受験を目的とした学力です。これは、子供が減ってきたのですから、現在は、「進学すること」自体が目的ではあり得ない時代になってきました。不満を言わなければ、どこかに入ることは出来るという状況なら、「暗記能力」をのばすというモチベーションは下がってきます。だから、この種の学力は、なぜ下がったのかが合理的に理解できるものだと思います。
そうすると、問題は、学力が下がったことではなく、そのような社会状況がはたして人間の成長にとってどのような意味を持つかという価値観の問題になってくるのではないでしょうか。議論の方向が違ってくると思います。それも、前提を共有して議論をすれば、そのような方向が見えてくるのではないかと思います。前提を共有できなければ、いつまでも結論をぶつけ合って、どちらが妥当性があるかと言うことを争うことになるでしょう。
なださんは、以前とりあげたところでは、
「さて、侵略という言葉についてですが、言葉を議論するより、
その前に今の事実を見ましょう。」
(9月30日付け『打てば響く』「掲示板の議論」)
と語っていました。僕は、これには疑問を呈していたのですが、今回のなださんの文章には、議論の前提となることを確立するには、言葉に対する議論も必要なのだと言っているように聞こえました。そして、その前提が共有できなければ、事実を見ることも共通の見方はできないのではないかと感じました。
0023
議論の方法
アキレスの亀
01/25 13:33
議論の方法を語った言葉という観点で、なださんの言葉を拾ってきて、その意味を考えてみたいと思います。まずは次の言葉です。
「さて、侵略という言葉についてですが、言葉を議論するより、
その前に今の事実を見ましょう。」
(9月30日付け『打てば響く』「掲示板の議論」)
言葉の定義というものは、議論の前提として重要なものだと僕は思っています。言葉の定義が同じであるという前提が共有できない相手とは、結果だけを戦わせる水掛け論しかできません。その意味で言うと、この方法論には、僕は賛成できません。
むしろ、議論を始めるのなら、徹底的に言葉の定義にこだわるべきだと思っています。特に、反対の考えを持っている相手とは、この定義がちゃんとできなければ、議論という形態にはならないのではないでしょうか。
例えば、「イラクに米英軍主体の軍隊が入っています」という事実を採りあげた時、この事実が「侵略」に当たると判断できる「侵略」の定義があります。しかし、これは「侵略でない」と判断できる「侵略」の定義も存在すると思います。だから、事実を見ているだけでは、どっちの主張が正当性を持っているかは分からないと思います。
反対をしている人間は、それぞれの定義が間違っていると主張するでしょうが、それなら、やはり言葉にこだわって議論するしかありません。事実というのは、それが「あった」か「なかった」かという争いなら、事実を提出するだけで決着をつけることができます。しかし、そこに少しでも「判断」が入り込めば、言葉の定義の問題が入ってきます。
侵略という事実があったと主張しても、それが侵略であるという判断に賛成できない人間は、それは侵略という事実ではないと思うでしょう。「イラクに米英軍主体の軍隊が入っています」と言うことは、このことを文字通りに、「軍隊が入っている」ということだけで受け取れば、事実として受け取れます。しかし、これが「侵略」であるかどうかは判断です。
「事実」と「判断」を明確に区別することが議論では必要だと思います。そして、判断の根拠になることは、しっかりと言葉を定義し、その上で事実を提出するということが大事なのではないかと思います。
僕は、このなださんの言葉には方法論的な疑問を感じていますが、次の言葉には賛成です。
「自分が信じるだけではすむことではない。
一つ高い次元から見下ろして、自分たちの議論を考えてみましょう。」
これは、「判断」というものは相対的なものだということを語っているのだと僕は受け取ります。つまり、基準となる言葉の定義が違えば、正反対の判断が出てきても、それはその言葉の定義の元では正当であり得る場合があると、受け取ることです。正しさは、条件によるのであって、条件が変わるという相対的な場合は、正しさも変化すると考えるわけです。
その変化する正しさをとらえるために、「一つ高い次元から見下ろして」ということが方法論的に考えられているのだと思います。このためにも、言葉にはいろいろな定義があるのだという相対的な見方ができることが大事だと思います。
もし反対の意見を見て、その結論に感情を揺さぶられてしまうとしたら、言葉の定義の相対化ができなくて過剰反応をしているのではないかと、冷静さを取り戻すことが必要なのではないかと思います。そして、この冷静さを持つことができることが、僕は免疫性を持つことになるのではないかと思います。
なださんが、言葉よりも事実に注目しようと提案しているのは、言葉の議論の仕方が稚拙なものにとどまっているのを見てそう言ったのかも知れません。むしろ事実を見て、事実から出発した方が言葉の定義が正確にできるのではないかと語っているのかも知れません。もし、そういう意味なら、僕にも分かります。それは、言葉の定義を正確にするために、事実に注目しなさいといっていることになるからです。
仮説実験授業を提出した板倉聖宣さんは、「実験」という言葉の定義を独特なものとして提出しています。それは一言では説明するのが難しいのですが、板倉さんの「実験」の定義を用いれば、科学における法則の正しさや真理性というものが実にすっきりと納得できるように説明できます。つまり、その定義の方が有効性を持つことが分かるのです。
言葉の定義の議論も、このような有効性を持つことで妥当性を主張することが必要なのではないかと思います。そこに事実との関わりが出てくるのではないかと思います。辞書的に、言葉だけを分析してその定義をしても、おそらく有効性は引き出せないでしょう。なださんが見ていた言葉の議論は、そのような辞書的定義のような不毛な議論だったのかも知れません。そうではなくて、事実を基礎にして言葉の定義を議論しなければならないという主張だったら、「言葉を議論するより、その前に今の事実を見ましょう」という主張にも賛成します。
議論の前提としての言葉の議論は大切だと思います。しかし、それが辞書的解釈の議論になるのではなく、事実との関連で整合性を持つ定義であるかどうかの議論になることが、議論の方法として大事なのではないかと感じました。
0022
10月8日付け『打てば響く』「少し、引いて見てみよう」
アキレスの亀
01/23 20:55
10月8日付け『打てば響く』「少し、引いて見てみよう」を読んでいます。ここで印象に残るのは次の言葉です。
「おちょくられたり、罵られたりするのは、不愉快かもしれないが、
ホームページの掲示板はヴァーチャルな広場であることを思い出して欲しいですね。
こういうとき、冷静でいられるのと、いられないのと、どちらがよいか。
もちろんいかなる場合でも、冷静であることでしょう。」
一つ前の感想で、「自覚」のないものは、その責任として2度と書き込めなくても仕方がないだろうと書きましたが、難しいのは、その判断です。ここに、その判断のヒントになるものがあるのではないかと感じました。
「おちょくられたり、罵られたりする」というのは、それを感じさせる言葉を書いた人間は、それによってどのような意図を持っているのかが想像できます。正当な方法で議論をするのではなく、相手の腹を立てさせて鬱憤を晴らすというような意図があると思われても仕方がないでしょう。
そういうことは、自分の行為がどのような結果を招くか判っていない子供の行為と同じです。子供でない大人がこのような行為をすれば、責任をとらされても仕方がないでしょう。問題は、このような行為が、即書き込み禁止という排除につながることが、厳しすぎるかどうかという問題です。
もし、自覚した人々が主流を占めるコミュニティであれば、このような自覚のない人の書き込みなどは、なださんが語っていたように、自然にルールが作られて淘汰されることでしょう。それが自然にはそうならないということは、まだまだ日本社会の民度が低いということの表れかも知れません。
実際には、「おちょくられたり、罵られたりする」と受け取られる書き込みをする人は、非常識だという判断をされて、まともには相手にされないのだ、ということが常識になっているならば、秩序は自然に確立されるのだろうと思います。その常識が確立されていないので、自然淘汰を待つのではなく、強制的な排除になるのかも知れません。
「おちょくられたり、罵られたりする」という書き込みは、強制排除のための目安になるものだと思います。だから、そういうものには冷静になって対処して欲しいとなださんは語っているように思います。どうせ排除されるものだから、まともに対処する必要はないという感じでしょうか。
このほかには、どのようなものが排除の対象になるかは、なださんの文章からは直接想像はできません。具体的に対処している人が検討する事柄になるでしょうか。その際に、判断が確実にできる基準を立てるということに気をつけていれば、いいのではないかと思います。
僕は、自分のブログではかなり高いハードルを設けています。おちょくっていたり、罵っているのはもちろんですが、書き込みが、全く本題と関係のない屁理屈で文句を言っているだけだと判断したら、削除して、以後の書き込みを禁止しています。この判断は、僕の判断なので、抗議も受け付けません。僕のブログでの出来事なので、僕にはそれだけの権限があると思っています。
老人党は、個人でやっているのとは違うので、同じようには論じられないでしょうが、次のことは共通しているのではないでしょうか。僕は、僕の判断で書き込みを評価するので、何を書いてこようと冷静に対応できるという基盤を持っています。書き込みに対する免疫性を持っていると感じています。この免疫性は、インターネットでの議論に近い会話をする時には、必要不可欠のものだと僕は思っています。免疫性があればこそ、冷静に対処できるのではないかと思います。
なださんは、「少し引いて問題を眺めてみましょう」と語っています。これは、冷静に議論をしていこうという提案であるように感じます。冷静な議論さえできれば、こちらが腹を立てることもなくなるのではないかと思ったりします。
将来的には、このようなコントロールをしなくても、「自覚」のない人間が自然淘汰されるように、インターネットの世界の民度を上げていくことが望ましいと思いますが、掲示板という形式は、なかなかそれが難しい構造を持っているかも知れません。なださんも、
「掲示板あらしを、寄せ付けないようにしてくれという署名運動が起こっています。
気持ちはとてもよく分かりますが、掲示板はだれでも書き込めちゃうのです。
個人がメールを、受信拒否するようにはいきません。」
というふうに語っています。僕も、掲示板という形式を残すのは、よほどこまめに訪問者を管理しないとなかなか成功しないのではないかという感じもします。
僕は、議論をしたいと思う相手には、コメントではなくトラックバックを返していきます。コメントは短い文章になってしまいますが、トラックバックを返して、自分のブログでまとまった論理を展開できれば、かなり便利だと思います。
そのトラックバックに、さらに議論で返してくれれば、かなりつっこんだ議論ができます。掲示板と違って、短い言葉で、売り言葉に買い言葉というような感情的なやりとりにもなりません。じっくりと読んでから返事をするので、感情的にならないのです。また、そのようなゆっくりとした対応ですから、感情的に働きかけてくるトラックバックもほとんどありません。もしあったとしても、トラックバックは無視しておけばそれですみます。
議論のツールとしては、ブログのトラックバックは有効な気がします。逆に言うと、掲示板で議論をするというのは、かなり限界があることのように感じます。限界があるということを前提にして、それでもなおかつ掲示板で議論することにも価値があると考えて開いているのだと、そのような受け取り方も必要なのかなという気がします。
0021
9月30日付け『打てば響く』「掲示板の議論」
アキレスの亀
01/23 17:10
9月30日付け『打てば響く』「掲示板の議論」を読んでいます。次の言葉を考えてみたいと思います。
「掲示板というのは、自由な広場だというのがぼくの考えです。
ぼくは自由に関しては、絶対自由主義者です。
人間は自分たちだけで、必要なマナーを自然に作っていける動物だと信頼しています。
渋谷や銀座の、スクランブル交差点の人の動きを、高いところから見ていると、
一人一人が、よく激突しないで、それぞれが、それぞれの方向に
歩いていけるものだと感心します。」
この言葉の解釈はいろいろでしょうが、僕は、掲示板の流れやいきさつをほとんど分からない第三者として、この言葉を一般的な意味で受け取って考えてみます。
掲示板の自由性というものを考えると、これは、事前にその書く内容について検閲を受けるようなことはない、という意味に受け取りました。書く前には、何を書こうと意図しようと自由だという意味です。この自由に対しては「絶対」だとなださんは考えているのではないかと思いました。
しかし、実際に掲示板に具体的に何かを書けば、その書いた内容に対しては、書いた人間に責任が生じます。それが、誹謗中傷に当たるようなものであれば、今後その掲示板に書く資格を失っても仕方がないと思います。それが責任というものではないでしょうか。
原則的には、自由だから何を書いてもいいと思います。しかし、書かれた内容については、何が書かれても責任を問わないということはありません。書いたものに対しては、全て責任を問われると考えた方がいいのではないでしょうか。
この自覚を持つことで、「人間は自分たちだけで、必要なマナーを自然に作っていける」というなださんの判断が出てくるのではないでしょうか。ここまでは、きわめて常識的で誰もが共感する考えではないかと思います。
しかし、現実には、掲示板の荒れを問題に思っている人が多いと思います。「人間は自分たちだけで、必要なマナーを自然に作っていける」ということが、掲示板に関しては実現されていないように感じている人が多いように、外から見ていると感じます。
これは、前提となっている「自覚」に関わる問題のような気がします。「自覚」がある人がたくさんいれば、そのコミュニティは、自然に秩序を保つようになり、なださんが語っていることが実現されます。しかし、「自覚」がない人の方が多数を占め、その人たちが主流となる流れを作れば、「人間は自分たちだけで、必要なマナーを自然に作っていける」ということではなくなってしまいます。
掲示板の問題は、「自覚」のない人をどうするかという問題に絞られるのではないでしょうか。「自覚」のない人にまで自由を許せば、他の人の自由が侵されるというパラドックスが起きてきます。「自由を守るために自由を制限する」というパラドックスをどうとらえるかという問題が生じるのかなと思います。
インターネットの常識が、「自覚」のない人を自然淘汰するものであれば、誰も苦労はしないのですが、残念ながら日本のインターネットの水準はそこまではいっていないようです。
この場合に問題がいくつか存在すると思います。その人が、自分が書き込んだ内容については自分に責任があるのだという「自覚」を持っている人かどうかは、書き込んでみないと分からないという面があります。書き込む前に判断することは出来ません。だから、最初の書き込みは、自由に書き込む権利を保障しなければなりません。そして、「自覚」がないということをどういう基準で判断するかということも難しい問題です。この判断が正しくできれば、その人は、その掲示板では2度と書き込みが出来なくても仕方がないのではないでしょうか。
2度と書き込みが出来ないというのが、罰としては重すぎるということも議論になるかも知れません。しかし、また書き込めるということになると、「自覚」の程度を判断しなければならないということが出てきます。これはさらに難しい問題を生じさせるので、罰が重すぎると感じても、仕方がないかなと思うところがあります。
書き込み禁止になった人が、何らかの工夫をして、また書き込もうとする可能性もあります。それは、技術的な工夫で避けるしかないのではないかという気がします。
これは、第三者としての感想なので、面白いなと感じたら頭の片隅にでも覚えておいてもらえたらと思います。
0020
Re: なださんの言葉を受け止める
流水
01/20 10:33
アキレスの亀さん、
まず最初にあなたの誤解を2,3指摘しておきます。
●流水さんが「幻想」だと主張している「意志の自由」が、どういう形で現実に存在しているのかと言うことの理解を求めたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしは、人間全てがあなたのいう【意志の自由】で選択することなど、【幻想】であると主張しているのです。
この世には多くの人間がいるのですから、意志の自由で選択している人も存在するし、現にわたしはそうしています。
だから、前のレスで、★「人は皆自分の判断を信じて行動したいし、多くの人は日常でもそうしているはずです。わたしはそのことを一度も否定していません。」
と書いているでしょう。
あなたはまさか自分だけに通用する論理を語っておられるのではないでしょうね。わたしは、自分がそうするのなら、他人にも認めなければならないと書いているのです。そうなれば、すべての人の【意志の自由】を認めなければなりません。
わたしの関心のあるのは、その前提に立った場合、ある程度「自由の限界点」を設けなければ、収拾がつかなくなる、といっているのです。
あなたは自分の場合を例にあげて説明されていましたが、別にあなただけではなく、ここに参集されている人はそうだと思います。わたしはそのことを否定しているのではないのですよ。
あなたが理解されていないのは、普通の生活人は、「話す」、「生活する」という繰り返しなのです。そこには、「書く」という行為は入らないのです。別に学者や小説家や評論家でなくても、【書く】という行為を生活の中に繰り込んだ人間は、ある意味で【知識人】なのです。「知識人という存在は、民衆からは上昇的に疎外され、権力からは下降的に疎外される宙吊りにされた存在である」(吉本隆明 日本のナショナリズム)という規定がありますが、まさにあなたの論理がそうなのです。
普通の生活人から見れば、あなたのいうような【意志の自由】が100%実現できることなどあるもんか。もし、それができる人間がいるのなら、よほど金持ちか、権力者か、学者さんか、芸術家か、どのみち自分たちとは関係のない話だというでしょう。
わたしが幻想だといっているのは、「意志の自由で選択する」ことを保障するのは、「必然性の法則」によるなどということを指しているのです。
普通の人は、そんなご立派な法則で生活していないのです。
だから、こういう誤解を招くのです。
●自由を認めたら、それは混乱を起こす自由しか起こらないと言う判断は、流水さんの経験から、そういうものがあったかも知れません。しかし、自由には、あえてルールに従う自由というのもあるというのが僕の立場です。混乱を起こすから規制をするという発想は、現実的にはあり得るかも知れませんが、論理的には、それしかないと考えるわけにはいかないと言うのが僕の論理的な立場です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしがいつ混乱を起こす自由しかないといいました。あなたが書いた論理を伸ばすと、混乱を起こす自由も認めるしかないと主張しただけです。
あへてルールに従う自由もあるなど、常識です。わたしがそんなことも分からずに書いていると思いますか。
【自由】には、大きく分けると【獲得の自由】【無為の自由】【抵抗の自由】【遵法の自由】があるとわたしは考えています。
だから、以下のような誤解を生じます。
●混乱を起こすから規制をするという発想は、現実的にはあり得るかも知れませんが、論理的には、それしかないと考えるわけにはいかないと言うのが僕の論理的な立場です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたはわたしを【規制主義者】のように誤解していますが、わたしは現実の場では誰よりも規制緩和論者でしたよ。わたしが子供たちに言っていたのは、人間が本当にしてならないのは、「殺すな、焼くな、犯すな、盗むな」だ。「後のことは、人間が生きていくのに必要な集団の約束ごと。それは、集団の質を変えることによって、変更可能なものが多い。それを学ぶのが、学校という場所だ」という立場でした。
つまり、彼らの判断を磨くためのあらゆる具体的方策を講じた上で、最後の最後の手段として規制などを考えていました。
ついでにいうなら、わたしは、論理的立場は立場として、それを具体化できないものは、どこか論理が間違っていると考えていました。丸山真男の言葉を書いておきましたが、【現実を束としてみる】ためには、理論とか理想は大切です。そうすれば、方向性は見えてきます。
あなたが論理としては、「それしかないと考えるわけにはいかない」と書いておられますが、そんなことは論理でなくても現場の中で厭と言うほど実践してきました。百も承知です。
わたしが言っているのは、先に書いた4つの自由を希求する中で、どこにどうその自由の限界点をおけば、子供たちの自己実現の可能性を最大限に引き出せるか、という一点にあるのです。
わたしがなぜ反論したかというと、あなたの論理から引き出される現実の行為が考えられ、それを包含した論理構成がなければ、それは論理とは言わない、とわたしは考えているからです。
ですから、あなたの論理から考えうるさまざまな現実の行為などをぶつけているのです。
最後にあなたの書かれたことは了解します。
0019
意志の自由の実在
アキレスの亀
01/20 09:07
流水さんは、僕があくまでも論理を重視する姿勢に対して、現実重視の立場からの反論を述べているように僕は感じます。僕は、それに対してやはりあくまでも論理の立場から反対する部分があります。しかし、あえてその論理的反論を書かないという選択をしました。
そうして、その選択が、僕が語っている意味での「必然性の洞察」であり、僕の「意志の自由」を基礎にした選択であることを説明し、流水さんが「幻想」だと主張している「意志の自由」が、どういう形で現実に存在しているのかと言うことの理解を求めたいと思います。
僕は、「護憲+」にメンバー登録し、それが認められ、このようにこの掲示板に書き込む「自由」と「権利」を得ました。僕が書く内容は、原則的には「どんなことを書いてもいい」という自由だと認識しています。僕が、何かをここに書き込む前に検閲を受けることはありません。つまり、可能性としては無制限の自由があると思っています。
しかし、この可能性としての無制限の自由は、「何でもあり」の無秩序な自由ではありません。僕には、ここの掲示板にふさわしいことを書くために、ここがどういう場所であるかという認識をもとにした洞察があります。この洞察なしに、自由なんだから、何を書いてもいいのだと思うのなら、それは選択能力の欠如から来る「不自由」を生むでしょう。
僕は、意志の自由の実現を図るために、この掲示板の本質を考え、次のように結論づけました。ここは、メンバー以外に公開されているところで、メンバー以外は書き込む自由はありませんが、閲覧する自由はあります。つまり、第三者が常に目にしているということを前提に、ここに書き込む内容を考える必要があります。
老人党の当事者である人は、老人党の活動を紹介し、それが第三者の共感を生むものであることを説明することを目的にここに書くのではないでしょうか。それが、仲間内では分かり切ったことであっても、第三者である人々が知らないのではないかと思えば、それを書くことでしょう。そういう洞察があれば、「何を書いてもいい」と言うことではなく、洞察に基づいて書いてこそ「自由」を実現していると僕は感じます。
僕は、老人党の当事者ではなく、なださんの考えに共感した老人党のシンパです。その僕は、ここに書き込む内容を、僕が共感したなださんの考えを知らせることで、それを知らない第三者に、なださんの考えがいかに素晴らしいかを伝えると言うことを目的にしました。
流水さんとの議論は、僕にとっては個人的には非常に関心のあるものです。僕は、あくまでも論理を重視し、実践の背景に論理がなければ方向を見誤るという考えを持っています。だから、論理の反駁に現実を対置する反論は、僕には疑問が大きいのです。それに反論することは、非常に関心があることですが、僕が元々このスレッドを立てた目的とは、議論の方向がかなりずれてきました。
僕は、流水さんと、なださんの考え方そのものについて議論をし、お互いがどこを素晴らしいと認識しているかをクローズアップさせたいと思っていましたが、目的に反して論理主義と現実主義のぶつかり合いのような議論になっています。このような議論をこのまま続けることが、果たして第三者に公開されているこの掲示板にふさわしいかどうかが気になってきました。
このような認識のずれを、第三者が読みとって、そこから何かを学べるのなら意義があると思うのですが、果たしてそのようなものになるかが心配です。単なる見解の相違で議論がすれ違っているだけという印象を持たれたりしないでしょうか。
そこで、僕は、ここであえて流水さんの主張に対する反論そのものは書かないという選択をしました。これは、以上のような洞察から、いくつかある選択肢の中から、自らの自由意志で選んだものだという自覚を持っています。そのことで、流水さんが「幻想」だと言った、「意志の自由」の存在を示すという意図もあります。
自由を認めたら、それは混乱を起こす自由しか起こらないと言う判断は、流水さんの経験から、そういうものがあったかも知れません。しかし、自由には、あえてルールに従う自由というのもあるというのが僕の立場です。混乱を起こすから規制をするという発想は、現実的にはあり得るかも知れませんが、論理的には、それしかないと考えるわけにはいかないと言うのが僕の論理的な立場です。
流水さんとの議論は、やはりなださんが提唱する「自由」をどう解釈するかという問題がシャープに関わってくるような気がします。そうすると老人党の活動に関する具体的な内容に触れずにはいられないような気もします。僕は、それを注意深く避けてきました。僕は、あくまでも当事者ではなく、せいぜいシンパでしか過ぎないと思っているからです。具体的な活動に口出しするのは、越権行為ではないかという思いがあるからです。よけいなお節介になりそうなので、一般論の範囲で、第三者として許される範囲でのことしか書きませんでした。
このようなことを考えると、この場で議論を続けると言うことにますますためらいが出てきます。議論を続けるのなら、他にふさわしい場に議論を移さなければならないんじゃないかという気もしています。また、議論を続けることが、どれほど有益なことであるかということも考えなければなりません。僕は、よけいなお節介はしたくないからです。
しかし、このようにスレッドを立てて公の場で自分の考えを表明したと言うことは、もうこのスレッドは自分の手を離れて、自分一人の判断では決められないことも含んでしまったような気もします。僕自身は、このままこの場で議論を続けることにためらいを感じますが、この場で語ってこそ価値があるという判断があれば、聞かせてもらいたいと思います。また、議論の場を移すことについては、流水さんに同意していただければそうしたいと思います。また、これ以上続ける価値はないという考えもあれば、お聞かせいただければありがたいと思います。
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