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  国家神道の歴史(1)
流水    −    2004/12/10-22:44:06
靖国神社問題を語るときの基礎知識。右派に対抗するための理論武装をしよう。
0009 Re: 国家神道の歴史(1) ハンドインハンド 01/02 13:21
 
これは『月刊社会民主』2005年1月号に載っている文章だから意味があると思います。『月刊社会民主』は当然のことながら、社民党が発行しています。社民党もヒステリックに批判だけをしている党でないことを、多少とも理解できるのではないでしょうか。

日中関係を考える   神奈川大学教授 田端 光永

14頁〜16頁

責任問えない背景にある理由

 その加害者、あるいは責任者が「昭和殉職者」の名の下に、被害者である戦没者と一緒に祀られているというのは、いかにも奇妙だが、そこへ総理大臣が参拝するとなれば、彼らをも戦没者と同列において免罪するのかという疑問が生じるのは当然である。総理大臣は言うまでもなく公人であり、日本を代表する人間である。その行動に外国から批判や疑問が呈されたなら、きちんと回答することは公人としての義務である。ところが小泉首相の答えはピントはずれに終始している。

 実は、答えは別に難しくはないはずなのだ。「A級戦犯は、あの戦争の責任者である。内外の悲劇は彼らによって起こされた。だから彼らは東京裁判で裁かれた。靖国神社に合祀されている14人のA級戦犯のうち7人は処刑された人間であり、他の7人は服役中に生涯を終えた人間である。彼らの責任は重大であるが、裁きを受け、すでに故人となった以上、罪は罪としても、いつまでも鞭打つことは日本人の習慣になじまない。参拝することは免罪ではない」と言えば、中国をはじめ諸外国の理解も得られるとは思う。おそらく小泉首相自身も周辺も、それはわかっているのではないか。

 ところが小泉首相にはこれが言えない。なぜか。

 一つには、日本人は身内同士で責任の所在を明確にすることが苦手である。「言い出しにくい」「本人が一番わかっているはず」「無理に白黒つけると後が混乱する」など、理由はさまざまだが、何かひどい結果となっても結局、責任を明確にしないでうやむやに済ませる傾向が強い。あの戦争についても、敗戦と訊いて、宮城前の玉砂利にひざまずいて天皇に詫びた民衆の姿や、「一億総ざんげ」なる言葉が生まれたところに、それは顕著だ。

 もちろん、戦後に戦争責任を追及しようという声はあったはずだが、一方には「総ざんげ」で済ませたい人々もいた。そこへ東京裁判が始まった。これは日本人、なかんずく為政者にとってはまことに好都合であった。なぜならば「戦争責任を裁け」という声は、この裁判が吸収して、連合国が日本国民に代わって裁いてくれた形となった。一方、責任を追及したくない人々、あの戦争を非と認めたくない人々にとっては、東京裁判のおかげでA級戦犯に「勝者が敗者を裁く違法な裁判で、罪に陥れられた犠牲者」という外皮をまとわせることが可能になった。「昭和受難者」という美名もそこから発明された。結果として、日本人は自らの戦争責任を追及することをしないで済ますことができたのである。とりわけ戦後の歴代首相が、この厄介な、取り組めば国論が二分される戦争責任の明確化という課題を避けて通ることができたのは幸運であった。

 だから、これまで歴代の首相は不戦を誓い、平和を強調することにはためらいを見せなかったが、具体的に、誰にあの戦争の責任があったのかには口を閉ざしてきた。小泉首相のピントはずれには理由がある。

 二つには、戦没者遺家族の心情の問題がある。先ほど私は、加害者と被害者という言葉を使ったが、遺家族の中には、そういう割り切り方を拒否する人が多いようである。理屈の上ではそうであっても、そうは言ってほしくないという気持ちである。なぜなら加害者と被害者の関係となれば、戦没者は悪い奴らのおかげで戦争に駆りだされ、外国人に損害を与えた上に、自らも無意味に死んだことになる。こう考えることは、遺家族にははなはだ辛い。それよりも「お国のために命を捧げた」と思いたい。それにはA級戦犯が加害者では困るのである。A級戦犯合祀を遺族会が希望した事実が、それを物語っている。

 この二つの理由から小泉首相は、A級戦犯の責任を明確にすることができない。外国から批判を浴びて参拝を取りやめた小泉首相以前の首相たちも同じであった。現在、一部で取りざたされている「A級戦犯分祀」という考え方も、肝心なところで迂回するという意味では同様である。    
 
0008 Re: ウルトラ・ナショナリズムと個人の関係 流水 12/14 16:02
 
1931年から1945年まで行われた日中戦争時代の日本の政治体制・社会体制を支配した政治思想をウルトラ・ナショナリズムと呼ぶ。
この思想の特徴は、表面的(表の論理)として、万世一系の神聖な天皇が統治する万邦無比の国体を持つ国家として,日本を位置付ける。
万邦無比の国体とは、大日本帝国を【真・善・美】の主体とする思想である。

つまり、【真・善・美】そのものとしての国家であり、【真・善・美の極致】である【最高真・最高善・最高美】の体現者としての国家であり、【全ての真・善・美】の基準としての国家であり、【真・善・美】の決定者としての国家である。
つまり、ここで言う【国体】とは、一人一人の個々人の「主観的内面性」の全面的な否定の上に成り立つものである。

ここでは、【私事】=【悪】、【個々人の主観的内面の価値判断】=【私事】=【悪】という図式で、物事が判断される。
この当時、男の子と女の子が一緒に歩いただけで、この非常時に何をしているか、この軟弱者、と言う事になる。
淡谷のりこが、歌手としての職業柄もんぺをはくのを拒否したら、非国民として糾弾されたそうであるが、これも【私事】=【悪】の図式からすれば有り得る話である。

そして、【私事】=【悪】の図式を共有しない者は、【非国民】として、排除・差別・糾弾の対象になる。だから【お国の為に生き,死ぬ】事が【真・善・美】の極致として、称揚される。

爆弾三勇士・木口小平などは、大日本帝国臣民の鑑として称揚される。
余談だが、【木口小平の死んでもラッパを口から離さない】話は、私個人は小学校時代から知っていた。わたしの出た高校の裏に【小平園】という木口小平の顕彰碑がある公園があった。彼の生家は、この町の本屋さんだったので、結構有名だったのである。
ただ、彼の死は美談でも何でも無くて、突撃ラッパを吹いている最中に弾にあたり即死したため、死後硬直でそのままラッパを咥えたまま倒れていたのだという説もある。
もう一つ爆弾三勇士は、同和教育をした経験のある人には常識であるが、彼らは被差別部落出身者であった為、特攻攻撃に選ばれたというのが定説である。

本論に戻る。
上記のような国家の無制限な【私事】への浸入は、その帰結として無制限な【公私混同】を招く。
つまり、【国家の名において行われる事】は、すべて【善】である、と言う前提なのだから、【国家の名において行動している人間の私事が無制限に国家に浸入】するのである。

軍隊において行われる私的制裁(リンチ)が全て【天皇の名において】行われる。
野間宏の【真空地帯】とか、最近では妹尾河童の【少年H】の中の配属将校を見れば,一目瞭然である。
つまり、権力に如何に近いかという順番が、その【私的制裁】の正当性を担保するのである。

それでは、【真・善・美】の体現者である大日本帝国の数々の愚行は,何故起こり得たのであろうか。
【真・善・美】の体現者である国家の軍隊が、【悪行】をなしうることは原理的にはあり得ない。
しかし、【戦時国際法】は【国際人道法】を完全に無視し、多くの【捕虜の虐待】を現出した。
【バターン死の行進】にせよ、【731部隊】の丸太と呼ばれた中国人捕虜を使った人体実験、【九大医学部】で行われた生体解剖にせよ、通常の神経では考えられない行為である。

この淵源は、【真・善・美】の最高の体現者であると定められた大日本帝国の【国体観】そのものにあると考えられる。
【善】そのものであるという国家観は、国家のやる事には【悪】という概念は存在しない事を意味する。
この事は、国家権力の階段の上位に位置するものほど、というより【国体観】そのものを自己の内面と一致させたものほど、【国家も人間も悪をなし得るという意識】が欠如し、【無自覚な無責任】性に傾斜しやすいのである。
これは老人党掲示板でわが者顔に振舞っている右派連中をみれば、すぐ理解できる。彼らのような連中が、戦時中には大手を振って闊歩するであろうことは容易に想像がつく。
同時に、国家の名において行動する時の傲慢さと私人として行動するときの卑小さが際立つのである。

一例を挙げれば、エイズ裁判の時の安部被告を見て欲しい。彼が厚生省エイズ研究班の班長の時の言動と彼が裁判の被告になった時の言動との落差を見れば、上記の論理は理解できると思う。
そして、官僚組織や警察組織、軍隊組織を見れば理解できるが、日常的に【抑圧の委譲】による精神の均衡を図らなければ生きていけないのである。

つまり、天皇を頂点としたヒエラルヒー(縦の組織)が厳然として存在し、上位権力者の私事の侵入による上から下への不断の抑圧があり、ヒエラルヒ―に随い上から下への抑圧の委譲が行われ、その抑圧感が戦場で爆発する。それが、帝国陸軍の強さと言われた。
この構造は、現代の警察組織にその片鱗が見られる。
これが、最底辺の兵士の野蛮な行為を生んだと言える。木曾義仲軍の都における規律のなさが、彼の失脚を早めたのと同義である。

そして、この日常的な抑圧感は、【非国民】への徹底的な抑圧として働いたり、戦場での強奪・強姦として現出したのである。
南京攻撃は、石原莞爾などの強硬な反対を排して行われた為、充分な兵站の確保なしに行われた。その為、食料などは【現地調達】であり、強奪は日常の行為であった。また、あまりの強姦の多さに音をあげた陸軍首脳により、慰安所の設置が行われたのである。

このように、理論的には【真・善・美】の体現者である【天皇の軍隊】の行った蛮行(これは古来より軍隊にはつきものの行為であるが、日本軍にはその歯止めがなかった)は、一人一人の人間の責任であるが、それよりもその国家観自体にその原因が内包していると考えるのが、【歴史の教訓】を未来に生かす道である。
南京大虐殺の論議・従軍慰安婦の論議は、この歴史の教訓という意味からはきわめて皮相な論議である。

南京で何人の人が殺されたかは、それこそ実証的な数値がでるはずがない。なぜなら、当時の中国の現状から考えて、それだけの行政機能が備わっていない、と考えるのが真実に近いと考えられる。
同時に、アメリカ軍と違い(アメリカ軍はかなり精緻な戦いの記録を残している)日本軍はそれだけの記録を残していないし、敗戦が決定的になった時、大量の証拠書類その他を焼却したり,破壊している。
陸軍731部隊の撤退の時、大量の書類が焼却され、施設その他が破壊された事は周知の事実である。

つまり、南京で何人の人間が殺されたかを論議する時、その挙証責任は日本側にある事を踏まえて論議しなければ、フェア―ではない。
無いとするならば、納得できる証拠を提出しなければならない。中国側・あるとする側の提出証拠にけちをつけるのは,論議する態度としてフェア―ではない。
簡単に言えば、証拠隠滅を徹底的にした後、【証拠がないだろう。証拠を出せ】と言って無罪を主張するかってのマフイア裁判と同じである。

私自身は、中国戦線特に南京における非戦闘員の殺害・捕虜の殺害行為は、数の多少の論議はあろうが、あったと推定している。
かなりの数の写真資料・被害者側の証言・南京攻防戦に参加した兵士の証言など、すべてが偽りであると言い切るのは無理があると考えている。

それよりも、このような虐殺行為が何故起きたのか、論理的には【真・善・美】の体現者であるべき皇軍兵士が何故このような蛮行を起こしたのか、を検証することのほうが意味があると考える。
このような論議をし始めると必ず【ナチスのホロコースト】やアメリカ軍のソンミ村の虐殺行為を引き合いに出して、戦争にはつきものだから日本だけを責めるのは間違いである、という反論が出る。

決定的に違うのは、【ホロコースト】にせよ、【ソンミ村の虐殺】にせよ、なかったと言う反論はない。
少なくとも、事件そのものを【無かった】としてしまう【歴史の抹殺行為】はなく、事件そのものの対象化が行われ、そこから何らかの教訓を引出そうとする姿勢が見られる。
先年、沖縄で米空軍兵士の婦女暴行行為が問題になったことがある。
本土復帰後でも、この種の事件が頻発していると言う事は、占領下ではどうだったかは想像に難くない。ちなみに,この種の強姦・暴行事件の発生件数は493件とされている。

では、中国戦線での皇軍兵士はどうだったか。戦時下だったのである。しかも、食料は現地調達・民衆はすべて敵とみなせ、という命令下の軍隊がどのような蛮行を行ったか、ほんの少しの想像力を働かせれば理解できる。
沖縄米軍基地の全兵士が、婦女暴行をするわけではない。ほとんどの兵士は、善良な若者であると考えられる。しかし、被害にあった当人や家族・親戚・友人たちには,米軍兵士すべてが【レイプ犯や暴行者】に映ずるのも無理からぬ所がある。

もし、米軍やアメリカ政府が【暴行そのものが無かった】と主張したら,国内世論がどう動くか、誰にも簡単に想像できる。
歴史解釈は,相対的なものである。特に,一方が加害者、一方が被害者の場合、その解釈は鋭く対立する。
かってアメリカ西部劇は、インデイアン悪者史観で統一されていた。西へ西へと幌馬車に乗って開拓民が出かけるのをインデイアンが襲いかかり、それを守る為に騎兵隊が出動する。悪者インデイアンを懲らしめる正義の味方騎兵隊という図式は,誰も疑いもしなかったし、事実この見事な【勧善懲悪】の図式は多くの大衆の心を引きつけた。

しかし、黒人の公民権運動の高まりとともにマイノリテイの権利の主張が行われ、現在では映画にこのような単純な図式が用いられる事はない。
つまり、人権の主張が歴史解釈に複眼的な視点を与えたのである。

歴史の教訓とは、このように自らの恥部に目をそむけず,真正面から見据える者だけが手にする事ができる。
人間は間違いを起こす、と言うより、「間違いを起こすから人間である」、という事実は、国家にもあてはまる。
ただ、人間は間違いを認めることが出来、間違いを正す事が出来る。これが、【理性】であると近代哲学は宣言した。
少なくとも、近代国家の道を歩んできたわが国に【理性】がないとは言えない。

現在、中国・韓国国内に高まっている一種のナショナリズムは、当然その糾弾対象を必要とする。同時に、そのナショナリズムを国内統治に利用したり、ある程度の配慮を必要とするのは,政治と言うもののメカニズムである。
対日批判は、このようなナショナリズムの恰好なはけ口なのである。まして、中国や韓国にとって日中戦争時代・植民地時代の記憶は、完全な歴史の対象ではなく、祖父・祖母時代の生々しい記憶なのである。

交通事故の被害者・犯罪被害者の証言などを加害者側から見ると、何がしかのオーバーさがあると感じるのが通常である。
しかし、この被害者・加害者の証言を判断して、ある種の正当さを担保した判断を加えるのが、裁判なのであるが、戦争犯罪などを裁く正当性を担保された【国際裁判】【国際法】は難しい。

東京裁判の正当性はいまだに疑われているし、勝者が敗者を裁く事はその正当性を疑われても仕方がない。
ユーゴのミロセビッチ大統領を裁く国際法廷が開かれているが、彼が裁判それ自体を拒否しているのはある種の正当性はあるのである。
東京裁判の時、東条英機が【焼け野原になった東京の姿を見ろ。これでもあなたたちに罪がないと言うのか】と開き直ったのも理由がある。

しかし、21世紀はこのような世界が持っている不合理を何とか克服する【世界的努力】が行われる事を期待したいと思う。
確かに、ユーゴのミロセビッチ大統領の主張にはある種の真実はあるが、それでコソボで行われた蛮行が消滅するわけではない。
東条英機の主張にも同種の正しさは認められるが、それで無謀な戦争に突入した罪が消え去るわけではない。

わたしには、同じA級戦犯として絞首台の露と消えた広田弘毅の沈黙の方に武人としての身の処し方を感じる。
戦争責任にも軽重はある。彼の戦争責任の追及は、当時から多くの議論があった。【果たして,他のA級戦犯と比較して、彼の戦争責任はそれほど重いのか】という疑問は現在でも付き纏う。
しかし、彼は一言の弁解もせずに、慫慂として判決を受け入れ,絞首台に消えた。
このあたりの事情については、城山三郎の【落日燃ゆ】を読んでもらえば理解できる。

広田弘毅自身は、戦争拡大に反対であり、出来得る限りの戦争回避の努力を行っている。しかし、個人的事情はどうあれ、彼の内閣当時戦争拡大を図る軍部を押さえきれなかった。この責任はどう弁解しても免れない、というのが,広田弘毅の立場であったろうというのが城山の説である。
【個人の心情はどうあれ、総理大臣として結果責任をとる、それを免れる為の言い訳はしない】
広田弘毅の心情を忖度すれば、こうなるのであろう。如何にも明治の日本人としての気骨が感じられる。

【政治はタクテイス】と言う近代的政治観からすれば、あまりにも儒教的ではあるが、われわれの心情を打つ。
ニュールンべルグ裁判のナチス指導者の堂々たる自己弁護と比較すれば、その東西落差に愕然とする。
ナチス指導者の【堂々たる悪党ぶり】も凄いとは思うが、やはり日本人には馴染まない。

彼我の差を分けたものは、やはり【恥】の感覚であろう。
「死しても虜囚の辱めを受けず」は、この極端な表現であろうが、【責任逃れする醜態】だけはさらすまい、という感覚だけは、あったのであろう。
戦後半世紀を超え、今や「責任逃れをする」エリートを山ほど持った国民の不幸は、戦前よりも深いかもしれない。

    
 
0007 Re: 国家神道の歴史(1) 神は二度死んだ 12/13 22:04
 
今年、朝日新聞の文化欄に哲学者梅原猛が、「反時代的密語ー神は二度死んだ」というコラムを書いています。
彼によれば、近代日本は二度「神殺し」を行ったという。
一回目は、明治政府が行った【廃仏毀釈】である。彼によれば、従来の日本を支配してきた神仏を完全に否定し、ただ一種の神々を残した。
【現人神】とアマテラスをはじめとする現人神の祖霊に対する信仰を強要したこと。
二回目は、敗戦により【現人神】そのものが、実は自分は神でなく人間であると宣言されたことにより、この神も死んだこと。

今年の皇太子殿下の発言は、二回目の「神殺し」以降の時代の一つの到達点ではないかと思われます。
明治憲法作成を主導した伊藤博文は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」という規定に関連して、以下のようなことをいっています。西欧諸国には「宗教ナルモノアリコレガ機軸ヲナシ、深ク人心ヲ浸潤シテ人心ココニ帰一セリ」(明治21年枢密院帝国議会憲法制定会議の開会の辞)「人心ヲココニニ帰一セリ」というのが、天皇制規定の主要目的であることが明確に示されています。

戦前、美濃部達吉の【天皇機関説】が、軍部の攻撃目標になりましたが、伝統的支配層の間では、【天皇機関説】が当たり前であったことが、伊藤の言葉からも類推できます。
天皇制理解の二重性がここに示されています。支配層の間での【天皇機関説】であり、国民には【現人神】としての存在という二重性です。
これは、支配層にとって都合の良い仕組みでした。戦前、皇国少年だった人々は、自分の死をどのように自分自身に納得させるか、というぎりぎりのところで、二つの選択肢を持った人が多いようです。一つは、天皇のため。二つは、母に象徴される家族や故郷の山河(抽象的な日本ではなく)のため。(これは特攻隊員の手記などに見られる)

ここまで、人々の心に浸透した【現人神】とは、天皇制とは何か、の問題は非常に難しい論議が必要ですが、少なくとも宗教【神】としての存在であったことは、間違いないと思います。そうでなければ、自分の死を自分に納得させる存在として【天皇】を考えるはずがありません。だから、戦前、心のそこから天皇制に入れあげた人は、天皇が人間であること自体が許せないと考える人が出てきても不思議ではありません。

三島由紀夫もその一人です。象徴天皇制など許せない、と考えたのでしょう。同時に、天皇制を再びそのような形で利用したいと考える支配層が出ても、不思議ではありません。
今回の皇太子発言問題で露呈した問題は、できるなら天皇制を戦前のような【現人神】として、利用したいと考える勢力(天皇機関説で)と「そんなことはご免だ」という皇太子との軋轢だと思います。
梅原流にいえば、いったん神ではないと宣言した存在が、再び神になることができるか、という問題でもあります。その意味で、今回の問題は、単に宮内庁(天皇機関説の代表機関)の問題だけでなく、天皇制それ自体の本質にかかわる問題だと思う。

明治維新を成功させた指導者たち(いわゆる元勲たち)が、一番腐心したのは、新たに作り上げた【日本】という国家に、民衆がどれだけアイデンテイテイをもつことができるか、という点でした。江戸時代が藩を中心とした地方分権国家であったことは、周知の事実ですが、これは民衆が【日本国民】というアイデンテイテイをなかなか持ち得ない、ということでもあるのです。
先に書いた国家神道の形成過程は、この明治政府の日本国民というアイデンテイテイ醸成の歴史であると考えてさほど間違いはないと思います。
伊藤博文が、明治憲法に「神道を国教」と書かなかったから、国家神道がたいしたことはなかったなどとしたり顔で言う輩もいるが、天皇制の問題を考慮に入れない愚論に過ぎません。

現在の日本人はこのことをなかなか想像しにくいのですが、イラクとかアフガニスタンなどの現状をよく観察してみると、分かると思います。例えば、アフガンニスタンのカルザイ政権は、中央政府です。ところが、それぞれの地方には、支配権を持っている部族長がおり、中央政府の方針が簡単にはいきわたらない。しかも、それぞれの部族長は、自分の支配する軍(私兵)を持っており、一種の独立国のような状態です。
これでは、アフガニスタン国民ということに、自分のアイデンテイテイを持つことは難しいのです。

同様なことがイラクでもいえます。米国が作ろうとしている新生イラクにどれだけの国民がアイデンテイテイを持つことができるかどうか。これが、米国作新生イラクの成否を握ります。

こう見てみると、明治維新の元勲たちが、国民の中にいかにして日本国民というアイデンテイテイを醸成させるかに腐心したかが理解できると思います。この【国民精神統合】のシンボルとして担ぎ出されたのが、天皇です。同時に、廃仏毀釈運動や神道国教化運動です。ところが、日本国民の間に宗教として沁み込んだ仏教の大きさにきずいたため、国家神道は宗教ではなく、儀式としての役割に限定し、天皇を全面に押し出したというわけです。

明治政府は、このために見事な方策をとっています。
多木浩二著「天皇の肖像」(岩波新書)は、この間の事情を下のように述べています。
◆明治の元勲たち(大久保たち)は、天皇の【視覚化】の必要性を痛感していた。

◆【具体的方策】
1、東京・近畿・中国・四国・九州にわたる天皇の巡幸 (明治5年)2、天皇の写真や肖像画を基にした【似せ絵】を民衆に流布させる※これには。二つの狙いがある。1、天皇には、「視るもの」としての体験を持たせる2、同時に、民衆から「視られるもの」としてはじめて禁裏の外にたたせる(私註)明治初年の民衆は、ほとんど天皇など知らなかったといってよい。中世以来、「雲上人」に囲まれ神秘化され、民衆から隔離されていた天皇を、【視覚化】するという発想は、革命的といってよいと思う。

◆明治21年 天皇の【御真影】が製作される。【手順】写真師内田九一が明治5,6年に撮影した写真→エドワルド・キャツオーネが【肖像画】にする→写真家丸木利陽が複写して、写真に仕上げる多木によれば、この手順によってできた【御真影】は、天皇の個人的な写像から個人的な存在感を脱白されて、写実性を持ちながら同時に抽象的な【身体】とポーズをした理想化された超人格的な帝王の姿に変貌したということになる。

◆【御真影】の下付 ※(私註)これが非常に重要。
地方官庁→軍隊→初等学校の順で下付されます(明治22年)この年、教育勅語発布。
多木によれば、【御真影】を下付されたものは、天皇を神聖に扱う無限責任を委譲されたと同じであり、それにまつわる限り、自分が下部のものに【天皇】とおなじ役割を持つ小天皇ということになる、という。

わたしは、若いとき勤務した学校の倉庫で、埃をかぶった【御真影】を見たことがある。そのときは特別な感慨を持たなかったが、戦前の経験がある先輩によると当時の学校長で【御真影】の取り扱いに間違いを犯して自殺した人もいたそうです。また、軍隊などは、この効き目はそれこそ霊験あらたかだったはずです。つまり、階級差は、そのまま天皇との距離の差になるわけですから、上官に抗することは、即座に【天皇】に反抗することになるわけです。

イラク・アフガニスタンの現状を見れば、明治維新の元勲たちの意図した【現人神】として天皇という制度設計は、元勲たちが意図した以上の成功を収めたといってよいのです。実は、天皇の人間宣言は、戦前国民を統御した上記の規律の終焉宣言でもあったわけで、象徴天皇制では決してその代替にはならないのです。 

この文章は、老人党掲示板に一度掲載したものです。    
 
0005 Re: 国家神道の歴史(1) 流水 12/11 22:06
 
北の老兵さん、ウミサチヒコさん

読んでいただいて感謝いたします。何日か、かかってまとめたのですが、自分でもこれは読みずらいだろうな、という感じがして、書き直そうかとも思ったのですが、それも辛いなというわけで少々未消化のまま掲示しました。

実は、これだけでは、国家神道の秘密を解き明かしたというわけにはいかないと思います。国歌神道と天皇制の関係、神道の歴史、思想的意味などまだまだ膨大な作業が必要だと思います。
この作業は、ある意味では、「日本人論」そのものだと思います。ただ、この作業抜きにしては、右派勢力のイデオロギー攻勢を跳ね返すのは難しいのではないかというのが、わたしの「感」です。

これから、何回かこの種の話題を書きたいと思いますので、お付き合いくだされば幸いです。    
 
0004 Re: 国家神道の歴史(1) ウミサチヒコ 12/11 21:24
 
0001.0002流水さん

膨大な資料にまとめる作業は大変でしたでしょう。私など、ざっと項目を見るだけで頭が変になりそうです。
過去の為政者が、民の声ではなく、いかに天皇制というものに寄りかかって物事を進めてきたかが窺い知れます。アメリカはこれを一度解体しましたが、アメリカはこれを解体することがアメリカ=民主主義の実現になると確信していたのだと思います。
思えば、インディアンを掃討したあと、北米での各種の戦争を経て、アメリカは第一次世界大戦、第二次世界大戦を通して、平和の旗手でした。しかし、それが赤狩り、ベトナム戦争、中南米支配、イスラエルへの肩入れ、イラクの戦争とだんだん世界に非民主主義を持ち込むようになりました。日本の住宅地に無差別爆撃をしかけ、原爆を落とし、そして日本を民主化するという手法は、アメリカの栄光の崩壊の始まりとして後世に語られると思います。(いや、そういうスパンで物事を見るならば、そもそものアメリカ合衆国の成り立ちにその「原罪」があるのかも知れません。)

1950年代の輝くアメリカの没落。なにがこのような愚かな行為をもたらすか。それは巨大産業を背景にする力の政治が、「愚かな」民の声を無視する形で行われて来たからに他なりません。これからの世界市民の任務はこれをただすことです。インチキ政治、インチキ選挙制度の下であっても、いぜんとして大多数のアメリカ国民には、健全な心が残っていると信じます。日本においてそうであるように。それを現実の政治の表舞台に表すこと、それだけが求められています。
ロシアでは、1917年、当時圧倒的な多数派である農民の支持の上に労働者の指導権で国民の多数派の政権が出来ました。それは武力で維持されたために変質し、違った支配構造を作り上げました。いずれも民主主義が形骸化したためです。民の声を無視したがためです。武力で世論を形成したがためです。自由な民の声が政治に反映されなければなりません。                    
 
0003 >Re: 国家神道の歴史(2) 北の老兵 12/11 11:52
 
流水さん

こんにちは!
流石ですね、大変勉強になりました。じっくりと何度も読ませていただきます。    
 
0002 Re: 国家神道の歴史(2) 流水 12/10 22:57
 
「神社局の施策」
@神宮の制度改革⇒1871(明4)に着手 内宮を外宮の上位とし、神官の職掌・補任法を改め、御師の大麻配布権を取り上げている。
1890(明23)⇒最高位の祭主には、皇族をあてる。
明29)(1896・11⇒神宮司庁官制度  職制確立
祭主(皇族)⇒親任官 大宮司⇒勅任官、ないし奉任官(内務大臣の指揮監督下)
少宮司⇒ 勅任官、ないし奉任官。いずれも各一人。
祭主を通じて天皇に直結、大宮司を通じて、内務省に直結。上級神官は、高級官吏として位置づけられている。

A官幣社、国幣社の整備
1887(明20)官幣社の神官を廃止、奉任官待遇の宮司と判任待遇の禰宜・主典を置く
1902(明35)官国幣社職制を公布
官国幣社の職員俸給は、官給。式典及び営繕費用も官給。
1874(明7年)官幣大社の経費官給は廃止(明治19年をもって)

神社界の猛運動
1906(明399・4⇒官国幣社経費の国庫共進決まる。比率、約1〜2割(※国家の宗祇という象徴的意味合いが大きい)

B民社の制度的整備
1894(明治27)・2⇒府県社に郷社には、社司1名と社掌若干名。地方長官が補任。
1902(明35)神社の神職も社司・社掌試験に及第したものでなければ、補任されない。
C1903(明36)⇒神宮皇學館設立

D明治以降、国家によって設立された官社
A、近代天皇制国家のための戦没者を祀る神社⇒靖国神社
B、南北朝時代の南朝方「忠臣」を祀る神社⇒湊川神社・藤島神社(新田義貞)・菊池神社(菊池武時一族)・名和神社(名和長年)・阿倍野神社(北畠親房)・霊山神社(同右)
C、天皇・皇族を祀る神社⇒橿原神宮(神武天皇)・宮崎神社(同左)・平安神宮(桓武天皇・孝明天皇)・吉野神宮(後醍醐天皇)・白峯神宮(崇徳天皇・淳任天皇)・赤間神宮(安徳天皇)・鎌倉宮(護良親王)
D、植民地に創建された神社⇒台湾神社  (村上重良著 国家神道)

いずれの神社も国家神道の思想を端的に表現し、高格の官幣社として全神社体系の中核に位置付けられている。
他方、府県社以下の神社では、戦没者を鎮祭する護国神社、近代の軍神を祀る神社、北海道などの開拓地の神社を除いて新設はない。

むしろ、国家神道の尊厳を代表しない小祠は、整理の対象になる。
府県社以下の神社に地方公共団体から幣帛料を共進する制度を設けても、民社の数が多すぎ、しかも神社の形態を整えてなく、奉職の神職もいない⇒多数ある。
そういう弱小神社を整理統合し、基本財産の整った有力神社をできれば一町村に一社ずつ育成し、これに幣帛料共進社に指定する(※内務官僚の意図)

この発想のモデル県 三重県
【法的整備】
明治38年(1905)⇒翌年から神社整理断行
明治38年・4 地方長官会議のとき、内務大臣原敬が神社整理の訓示
明治38年・4・28 神饌幣帛料共進に関する勅令公布
明治38年・8・9 合併跡地の譲与に関する勅令

明治39年(1906)全国的な規模で神社整理が着手
※ただし、内務省は上の2法令以外、法律も省令もだしていない。(資料不足)※なるべく合併させるという方針の下、地方長官に一任した。
明治38年〜明治43年までの神社数の減少率(※各県まちまち)
三重(91%)・和歌山(77%)愛媛(58%)大阪(56%) 福島(2%)・鳥取(3%)熊本(4%)
全国的減少率 明治38年〜明治43年 19万5000社が14万1000社
社格別  郷社  1% 村社 10% 無格社 35% 

官社は国家権力と持ちももたれつの関係⇒地域民衆の信仰と遊離したものが多い。
府県社以下の神社⇒地域民衆の生活と深く結びついていた⇒整理統合は、地域民衆の怨嗟の声を受ける

帝国議会での追求を受ける⇒神社整理事業は終息

以上のような経緯から、神社祭式も全国共通のものに制度化され、神社は国家の宗祀
であることが、官社レベルで実現、民社レベルでも建前の上では確立した。
つまり、これは、神社が国家権力によって掌握され、国民統治の具とされる体制が確立した。
官社はただちに国家神道の理念を代表するものであり、民社を中心とした一町村の団結強化という内務省地方局の政策によって有効に位置づけられていた。

大正2年(1913)・4 関係法令75件を統合した「内務省令」で一連の制度化完成
大正3年(1914) 官国弊社以下神社祭祀令及び神社祭式

明治天皇・昭憲皇太后を祭神とする【明治神宮の創建】⇒国家神道の確立を具象化する大事業
大正2年、貴族院・衆議院で明治神宮の創建決議
大正3年 昭憲皇太后の合祀が内定
大正4年 東京代々木に明治神宮を創建し、官幣大社に列する 内務省告示
約22万坪 522万の国費と6年の歳月で完成
大正9年・11 鎮座祭    国民の寄付 外苑の造成 約600万

★「国家神道の歩み概括」
神社神道から宗教的権能を切り捨て、祭祀の面によって【国家神道】を作り上げる歩みは、明治10年代に出発し、明示22年(1889)の大日本帝国憲法の枠付けにあった。

憲法28条「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」(※条件付、信教の自由)
28条に規定する宗教とは次元の異なる超宗教の祭祀として、「国家神道」は位置づけられる。
「問題点」
※祭祀⇒単なる儀式でなく、神霊を予想して神霊に対する祭祀である以上、宗教性は否定できない。

※国家神道の確立過程で、宗教性が後退し、儀礼の持つもう一つの側面「道徳性」が前進した。この道徳性の強調が、現在の靖国神社賛成論者の特徴である。彼らの言説から、ほとんど宗教性が感じられないのは、上記の国家神道の特殊性によるものである。
「国家神道の特徴」
宗教神から道徳神への「神概念の変化」、「信仰」から「崇拝」への神に対する心情の変化、これが神道不振の第一原因。 河野省三(国学院大学研究科:神道不振の原因)

★神社、特に民社⇒地域住民の協同生活の中から生まれ、地域での生産と生活を守護する鎮守として奉斎されてきた。神社の祭礼は地域の祭りである。地域の生産生活のリズムと密接に結びついている。⇒地域の神社は、地域の社会統合の象徴である。

明治政府の国家神道政策⇒国家神道の末端施設として行政の対象となり、政府の手によって制度改変、修正をやむなくされてきた。⇒住民感情無視の政策

一字一社の場合⇒反発は表面化しない。 一町村一社⇒反発拡大

「国家神道と他宗教の関係」
内務省の神饌幣帛料共進社を中心として地方改良を実現しようと意図。⇒神社の例祭日に学校を休業日にして、生徒児童を引率して参拝させるなど、教育権能を神社に結びつけることが日程に上った。広島では明治40年(1907年)、愛媛でも同年、この趣旨のことが指令された。取り扱いは、府県それぞれ。
全国神職会⇒明治42年通常国会では、「全国一律に、神社例祭日に学校児童を参拝させる」ように「訓令」を出すように、内務省に建議するよう議されている。
実現はしなかった。
しかし、これを実施する府県は増加⇒生徒児童の神社例祭日参拝が増加した。
他宗派(特にキリスト教)⇒反対者多い。

昭和15年(1940)⇒内務省神社局は神祇院に昇格。※国家神道の全盛期。
昭和20年(1945)⇒ポツダム宣言受諾
      (第10項) 「言論、宗教、思想の自由の確立」要求

1945・12「神道指令」と呼ばれる覚書 :国家神道の廃止を中心とする徹底的な「政教分離 」を日本政府にせまった。
「具体的措置」
1、神社神道に対する国家・官公吏員の特別な保護感得の停止
2、神社神道に対する公の財政的援助の停止 3、神祇院の廃止
4、神道的正確を持つ官公立学校の廃止 5、一般公立学校における神道的教育の廃止 6、教科書からの神道的教材の排除 7、学校・役場などからの神棚など神道的施設の排除 8、官公吏・一般国民が神道的行事に参加しない自由9、官公吏の資格での神社参拝の廃止 

これを見ると、米占領軍が如何に国家神道を研究し、危険視していたかがよく分かる。自民党政権による一連の復古的政策は、この占領軍によってなされた「政教分離」政策の復活であることもよく理解できる。      

1946年(昭和21年)元旦 天皇人間宣言 (天皇を現人神とする観念を架空な観念と断じ、天皇の神性を否定した)
1946年・2⇒神祇院官制など、すべての神社関係法が廃止。


    
 
0001 国家神道の歴史(1) 流水 12/10 22:44
 
老人党でこの話題を提示したら、わけの分からない連中が寄ってきて、冷静な議論もできないので、こちらに提示させていただきます。
国家神道の歴史をある程度知っていないと、靖国神社問題に対してきちんとした反対論も提示できないし、彼らの論理の嘘を見抜けないと思います。
この文章は、笠原一男編「日本宗教史」の中の国家神道(森岡清美執筆)を私流にまとめたものです。これで、おおよその国家神道の流れは概括できると思います。

★神道国教化の理論的背景
平田篤胤の復古神道⇒下級武士・神職・地主・在郷商人
          討幕運動・王政復古の思想的イデオロギーになる
★明治維新政府の神道国教化推進指導理念
1868・3・13 祭政一致の古制に復する。同時に、神祇官を再興、全国の神社を神祇官に所属させる旨布告 神仏分離令
1869・7 神祇官を独立させて、全官衛の最高位に置く。近代天皇制の神権的権力の確立を図る
平田鉄胤・大国隆正・福羽美静ら復古神道家の有力者⇒枢機に採用
神仏分離令発布⇒廃仏毀釈運動が盛んになる⇒廃藩置県まで熾烈な運動が続く
1870・1 天皇が全祭神の祭祀を支配する姿勢を明確にする。
1871・5 神社は国家の宗祀であることを宣言する太政官布告 ⇒       神道国教化政策

★神社の公的性格決定⇒神職の世襲廃止、精選の上補任。
神宮を除く全国の神社の中から官社を選びわけ、神祇官の所管とした。
  官社⇒官幣社(神祇官が直接祭祀を執り行う)⇒35社
     国幣社( 地方官が祭祀を執り行う)⇒62社
  諸社⇒地方官所轄の神社
   一等⇒府社・藩社・県社(府・藩・県崇拝の社)
   二等⇒郷社(郷邑産土の神)
あわせて、各級神社の神職職制を定める。
1871・7 「神宮御改革」
郷社定則⇒戸籍一区に郷社一社を置く。その他の区域内神社を郷社の付属として村社と呼ぶ
※近代社格制度完成
この直線的な神道国教化政策はうまくいかず、路線転換。

1872・3 神祇官廃止⇒教部省設置(社寺管轄)
1872・4 教部省の下に教導職
★国民教化の三原則(敬神愛国 ・皇上奉戴・朝旨遵守)(教憲と呼ばれる)
教化の施設⇒芝増上寺の大教院、地方の府県庁所在地に中教院、
   全国大小の神社寺院に小教院設置。 伊勢神宮に神宮教院設置。
      ↓
   神道国教主義に立つ組織的な国民教化運動を行う。
この中で教える力、理論的深みなどあらゆる点で仏教が優位にたつ。

大教院体制⇒国家が新しい宗教を国民に押し付けるという様相を呈す

★「反対論」
森有礼⇒「日本における宗教の自由」を発表。政府の宗教政策批判
島地黙雷(西本願寺の僧)⇒三原則批判の建白書提出⇒信教の自由を主張

神道側⇒神道の中央機関の設置 内部対立⇒1881(明14年)伊勢派と出雲派に分裂

★1877⇒教部省廃止 内務省社寺局
祭祀と宗教を分離、国家神道として神社神道を育成する方針に転換
1882(明15年)官社の神官の教導職兼補廃止、併せて葬儀に関与しない
1882・5 神道事務局所属の広義の神道系諸宗派の独立承認
※ 官社の神官を教化にも葬祭にも関与しない神道儀礼の執行者とし、神社神道とくに
官社の神道から宗教の要素を切り捨て、祭祀執行の権能に限定していく。
同時に、諸宗派の神道を神社神道から独立させ、これらを教派神道とよんで区別した。

★1900(明33)・4 内務省社寺局を廃止、神社局と宗教局
  この中で神社局が、国家神道をつくりあげる行政センター
    
 
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