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  21世紀の日本を模索するパラダイム転換(1)
流水    −    2004/10/27-21:06:30
なぜ、護憲政党が凋落したのか。なぜ、民主党に圧倒的な支持が集まらないのか。なぜ、賞味期限を終えた小泉自民党政権が延命しているのか。すべて、21世紀のパラダイムがみえない「不安」が原因であると思う。わたしたちは、新たなパラダイムを打ち出せなければ、永遠に自民党政権の悪政から抜け出すことができない、と思う。ここでその新たなパラダイムを創り出す議論をしてみたいと考えています。
0048 Re: 21世紀の日本を模索するパラダイム転換(1) 百山 01/07 12:40
 
0046 0047、横レス 失礼させていただきます。
流水さんが「多少刺激的」と書いておられるように、申されることの本筋では大きな差異はないように読ませて戴いております。

問題は、流水さんが言及されている「計算外」ということで、あくまでも「冷静」を保ち得れば 当然のことながら「計算外」は起こらない。
しかし、多くの悲劇はこの「計算外」によって引き起こされ、後は「引くに引けない」へと突き進む、これを恐れます。

「宣戦布告とみなす」。近隣国からこのような発信を受ければ、憲法の理念に照らし 当該政権は、外交上の重大失政として総辞職するのが当然と考えます。
自民党総裁として、その党をぶち壊す を掲げて選ばれたことと、総理大臣の地位が依拠するものとの区別すらつけられない。このような者に舵取りを委ねていることに、冷笑よりも戦慄すら覚えます。
宮沢、塩川、野中ら各氏の発言は、あくまでも党内バランスとしての逆バネに期待してのものでしょうが、これからの国会審議等を通じて どれだけそれが働くのか、注目しているところです。
なんとしても、主戦場は国会。これはいかようにもし難いこの国の仕組みですから。

    
 
0047 Re: 21世紀の日本を模索するパラダイム転換(1) 流水 01/06 08:10
 
平和の鉄人さん、
わたしの分析、特に今回の場合は、多少刺激的な内容のほうが良いと考えて筆が走ったところがあることは確かです。

権力構造からいえば、わたしはネオコン派は、オフェンシブ・リアリスト(ブッシュ政権の心臓部)の別働隊であると認識しているので、中国敵視政策は当分続くものと認識しています。
ただ、イラク戦争を見れば分かるように、この戦争は軍事常識を無視した形で行われています。アメリカの現在の苦境はイラク戦争前から予想されていたことです。だから、田中宇氏などは、なぜアメリカ(ネオコン)は自滅的な政策を取るのかと何度も問うているのです。

対中国でも同様なことが起きる可能性があります。しかし、中国は相手が大きすぎます。そこで、日本と対峙させるという戦略がとられている、と考えるのが至当でしょう。
だから、あなたのおっしゃるように通常の感覚ならば、緊張関係を維持しておくことが、最も国益にかなうのです。
ところが、日本の国粋主義派(通常の右派より右)は、このような冷徹な計算の外にあります。その計算外の力学が働きつつあるというのがわたしの認識です。

中国でもある報告によれば、毎年5000件くらい共産党の事務所などが襲われているといわれています。つまり、それだけ国民の不満が充満しているともいえるのです。反日というはけ口は、ある意味では、格好の材料ですが、これもまた計算外の力学が働く可能性があるのです。

北朝鮮は暴発できない、というのは、通常の政治力学ならそう考えるのが常識でしょう。しかし、軍部の強硬派の不満を抑えきれないと、分からないと思います。

日本政府が、そこまで、計算して日中関係、北朝鮮関係などを考えているとは思えませんね。
あなたのいわれる、危機を煽れば、軍備増強に走る危険性があるのだからという論理は、あまり賛成できませんね。
国粋派の暴走を止めなければ、同じことが起きます。その可能性の方がはるかに高いと思います。

かっての自民党政権は、このあたりの計算ができていました。かっての米国政権もそうでした。しかし、ブッシュ政権や小泉政権は違う、というのがわたしの認識です。
あなたのいわれる分析内容は、あまり異論はないのですが、上記の認識について多少の差があると思います。
    
 
0046 中国脅威論の政治的背景について 平和の鉄人 01/06 01:16
 
「老人党はどこへいく 0181」での流水さんの分析については、若干の異論があります。
そこで以前、このスレッドに投稿されている0044【米国の戦略と日本】と合わせ、昨今、現実問題として俄かに浮上している中国脅威論の政治的背景について、私が今感じていることを書かせていただきます。

まず、私が引っかかっているのは、以下の部分についてです。

「しかし、米国の権力中枢部では、イラク戦争後の世界の覇権維持のためには、中国との戦争は不可避と考えていると予測できます。米国は経済力ではもはや世界の覇権を握ることができないのだから、圧倒的な軍事力を行使して世界の覇権を維持し続けることが必要なのです。しかし、イラク戦争で見られるように、徴兵制がない米国陸軍は、これ以上人数は増やせない、国内世論を考えれば、これ以上の戦死者も出せない。それの肩代わりを日本にさせようとしているのです。つまり、日中戦争を行わせ、漁夫の利を得ようというのが、米国の戦略です。」

中でも「米国が中国との戦争を不可避と考えている」、「日中戦争を行わせ、漁夫の利を得ようというのが、米国の戦略です」という箇所については、私はかなり異なった見方をしています。
私は、正確には日中戦争をけしかけることが真の目的ではなく、北東アジアにおいて軍事的緊張状態を維持しておくのが米国の意図なのではないかと考えています。
日本で中国の軍事的脅威がマスコミなどを通じて、急に語られ始めたのは昨年頃からです。
実際に軍事的脅威があるかないかの議論は別にするとして、なぜ中国脅威論がこれほど急速に浮上してきたのかを分析しておく必要があります。

米軍イラク撤退後の次のターゲットとして北朝鮮、あるいは中国という見方もありますが、実際には非常に難しいのではないかと思います。
米国は以前、クリントン政権時に北朝鮮と戦争をした場合の被害想定のシュミレーションを行っていたわけですが、結果的には中国より遥かに小国であるはずの対北朝鮮との戦争ですら、極めて困難であるという判断を下しました。
この分析の中には米軍の直接的被害想定以外に、自国も含め周辺諸国に与える経済的打撃があまりにも大きいためだという理由も含まれています。
その点で日本と中国を戦争させて、お互いにつぶしあいをさせるというのは、あまりにも陰謀めいていて現実的ではない気がします。
軍事的側面だけ見ても、日本には世界戦略上重要な米軍基地があり、それを担保する日米安保条約もあることから、実際に戦争が起これば中国のICBMは日本のみならず米国にも飛んでくる可能性を否定しきれません。
従って、北東アジアに戦争を起こすことは、経済的にも軍事的にも米国にとって破滅をもたらす危険性の極めて高いものであり、何ら得策とはならないのです。
現在、米国権力中枢部はタカ派色が強いとは言え、この辺りの分析は少なくとも冷静に行っているはずです。
勿論、ネオコンやペンタゴンは、常時あらゆる場面を想定した軍事的シュミレーションはやっているでしょうが、それを政治的・軍事的に現実化するか否かは、また次元が別なのではないかと思います。

イラクでの戦争では米軍は当初の思惑がはずれ、撤退が非常に難しくなっています。
傀儡政権を無理やり作り上げようとするものの、選挙でさえまともに行えるかどうか分からない状況です。
今後は国連を再利用し、多国籍軍を導入することで、何とかイラクからスムーズに米軍を退かせたい腹積もりなのでしようが、なかなかそうは上手くいかないでしょう。
なぜなら、それは米国が奪い取ろうとしたイラクでの利権を、かなりの部分で譲り渡さない限り実現できるとは思えないからです。
それは今後イラクを橋頭堡にして、中東戦略を推し進めたいと考えている米国の国益にも大きな支障をきたすことにつながります。
現在のネオコン政権に、それを決断できるだけの融通性のある度量があるとは思えません。
ネオコンの机上シュミレーションだけでは思惑通りにいかないのが現実で、従って米国にとってイラク問題が片付かない限りは、次の展開へと踏み込むことはできないことを意味しているのです。

私が北東アジアにおいて、軍事的緊張状態を持続しておくことが米国にとって得策であると考えるのは、次の2点によるものです。
ひとつは、懸案の北朝鮮問題に関する6カ国協議を進める上で、常に主導権を握ることができること。
それは中国に対してプレッシャーを与えることができるのと同時に、日本や韓国を将来に渡って味方に引きとどめておくことを可能にするためです。
もうひとつは北東アジアの危険因子であるとされている北朝鮮が、何をするか分からないという恐ろしいイメージ流布とは裏腹に、実は軍事的に暴発する可能性がほとんどない国であるということが、日本国内の与党政治家・政府関係者の間ですら無言の定説になっていることです。
暴発する可能性がない国であるならば、軍事的脅威には到底なり得ないわけです。
つまり、日本においては北朝鮮に変わる新たな軍事的脅威として中国をやり玉にあげ、もっともらしい仮想敵国として設定しておく必要性があったのです。
このような北東アジアにおける対立構図を作り上げておくことは、覇権をめざす米国の国家戦略上、非常に重要です。
この点で、米国政府と日本のタカ派・国防族の利害関係は、見事に一致しているのだと思います。

日本国民が中国との戦争を本気で信じるようになれば、それこそタカ派・国防族、軍需産業にとって思うつぼです。
米国が中国との戦争を不可避だと考えているという言説が一般化すれば、日本の再軍備容認論へと傾き、世論は一気に戦争色へと突き進みかねません。
それは憲法改正をはじめ、諸々の有事体制を一挙にやり易くするための条件づくりとしては格好の材料です。
そのためにも再度、中国脅威論の政治的背景を詳細に分析しておく必要があると思うのです。
私は、以上のような観点から、別なアプローチで今沸き起こりつつある中国脅威論に対し、反証していく必要性があると感じています。

尚、流水さんが文章全体の主旨として提示されている国粋的な反中国、反北朝鮮論が本当の意味での国を滅ぼす元凶となるというご意見に対しては、何ら異論を差し挟む余地はないことを申し添えます。
    
 
0045 「お隣から見た日本文化・日本人論」 流水 01/04 12:10
 
「お隣から見た日本文化・日本人論」

李 御 寧 (イオリョン)著【縮み志向の日本人】という本がある。
http://www.ne.jp/asahi/nsm/toshikata/book/tijimi.html
西欧人が書いた日本文化論は多数あるが、アジア人が書いた日本文化論・日本人論というのは珍しい。
この本は、韓国文化との比較を念頭においた日本文化論であるが、日本人は「どうして欧米との比較ばかりをするのか、もっと近くに研究の対象となるべき国があるではないか」という著者のアジア人としての誇りが感じられる。

著者は日本文化を「縮み志向」という独特の視点で見ている。著者が考える「「縮み志向」の六類型を見てみる。

(1)入れ子型(込める)。
日本人は大きい世界から限りなく小さい世界に縮小させる。日本庭園に見られるように自然を写したり、さらに床の間の盆栽に縮めていく。このような形を入れ子型という。

(2)扇型(折り畳む・握る・寄せる)
筆者によれば、中国、韓国のウチワが、日本に伝わったとたん、それが折り畳み式の扇に縮められるコペルニクス的転換が起こったという。ふすまは世界で一番フレッシブルな折りたたみ式の壁ですし、2段、3段の折りたたみ式傘を作ったのも日本人。中国も韓国も提灯があるが、日本のものだけは折りたたみ式。このような折りたたむという特色を持ったのが日本文化。
 
(3)姉さま人形型(取る・削る)
姉さま人形は手足が省略され簡潔化され、縮小されている。日本人が漢字を手本にし、それを簡素化して仮名を作ったのも姉さま人形と同じ発想。例えは、「どうも」だけを使ってあらゆる意思を伝えるのも同じ縮み志向。

(4)弁当型(詰める)
食膳を縮めて扇のように入れ子のように持ち運ぶ発想を指す。「詰める」という言葉は、「甘え」などとは比較にならないほど日本的含蓄性に富んだ述語である。

(5)能面型(構える)
能面は喜怒哀楽のいずれの表情にも通じうる中間表情、つまり縮小された構えの表情。日本人は色んな場面で冷静さに戻りますが、それが構えの表情である。

 (6)紋章型(凝らせる)
日本人は観念的、抽象的なものを具体的、具象的なものに縮めて表す。それが家の紋章であり、職人の半てん、商家ののれん。そのようなシンボルを通して自分が所属する共同体に対して誇りと一体感を感じる。

どうも上記の日本文化の特徴を「縮み志向」という言葉でくくられると少々違和感が残る人も多いと思う。
わたしから言わせると、【簡素化】【抽象化】という言葉のほうがぴったり来るが、韓国の人から見ると、「縮み志向」という言葉に見えるのであろう、このあたりの感覚の違いは、非常に参考になる。

また、彼に言わせれば、日本の歴史の中でこの「縮み志向」の時代(例えば平安時代、江戸時代など)は、平和な時代だったということになる。
例えば、遣唐使を派遣して中国文化の吸収を行ったが、学び終えると遣唐使を廃止し、それを日本風に見事にアレンジし、日本独自の繊細な文化を生み出した。
このいわゆる「国風文化」の時代を彼は非常に評価する。つまり、外国文化を咀嚼し、完全に日本風に変えていった日本人の感性を総称して彼は「縮み志向」と呼んでいる。

その逆に【広がり志向、ないし伸び志向】の時代は、日本人は失敗しているという。例えば秀吉は朝鮮出兵で失敗し、戦前は太平洋戦争で失敗した。戦後の高度成長期からバブル時代も経済の広がり志向、伸び志向の失敗であるということになる。

彼に言わせれば、日本人は「縮み志向」では他国では考えられない比類のない素晴らしさを持つが、「広がり志向ないし伸び志向」には強くない、ということになる。
その逆に、中国は「縮み志向」には強くないが、【広がり志向、ないし伸び志向】(中華思想)には強い。韓国はその中間ということになる。

彼は、この日中韓三国の関係をじゃんけんになぞらえる。「ぐー・ちょき・ぱー」の関係のように、どの志向が強いのでもなく、三すくみの関係にあるというのである。これからの日中韓三国の関係を構築することが東アジアの平和につながるのではないかと考えている。(NHKTVでの正月の河合隼雄氏との対談)

わたしは彼の日本文化論に全面的には賛同できないが、彼の独特の視点はおおいに参考になった。
彼のいう「縮み志向」は、西欧流の「縮退」という考え方とも微妙に違う。西欧流の「縮退」という考え方は、無制限な経済発展を止めることに力点がある。経済学的にいえば、近代経済学とマルクス経済学の延長線上の議論という側面があることは拭えない。
ところが、彼のいう「縮み志向」は、文化論的側面が濃厚で一種の日本人論(人間論)である。

わたしは、この微妙な違いにこそ、日本文化や日本人が21世紀に世界に向かって発信できうる独自性があると考える。

例えば、彼が扇型(折り畳む・握る・寄せる)となずけた扇子で考えてみると、日本人の発想の細やかさが見て取れる。
彼がコペルニクス的転換となずけた「折り畳み式の扇」という発想は、日本人的にいうと「便利さ」と「美しさ」の追求である。
開いたままの扇を持ち歩くことは、どう考えても邪魔で不便、同時に開いたままの扇子を持ち歩くのはなんとも無粋で美しくない。それを必要なときに開き、美しい姿で扇ぐためには、折り畳むのが一番合理的であると考えたのであろう。
それを実現する技術を磨きあげ、美しい絵柄を散らしたり、香しい香りをたきこめたりしたのが日本人の知恵であり、美意識だったといえる。
さらに、それを着物文化と結びつけ、一種の様式美まで高めたのが日本人の美意識であり文化的成熟度だったといえる。

その意味で、彼のいう「縮み志向」という言葉は、日本文化の「咀嚼、磨き志向」という意味が濃厚である。
これを私流の言葉で言うと、「巴投げの発想」である。相手が押してくる力をふわっと柔らかく受け止め、自分の身を倒して相手の力を利用して投げ飛ばす。
これが、日本文化の特色であり、日本人がもっとも得意とするやり方である。

李 御 寧 (イオリョン)氏のいう「広がり志向、伸び志向」に日本人は強くないというのは、相手を力で押すやり方(覇権国家的志向)は、日本人の本性に合わないということを意味している。
これを島国根性とか平和ボケと揶揄するむきもあるが、これを声高に語る人々は、日本や日本人が最も不得意な分野に引きずり込もうという発想であり、歴史的に見れば必ず失敗している発想であるということにきずかないのである。

彼のいう「三すくみの関係」とは、大陸国家である中国と半島国家である韓国と島国国家である日本との文化的関係は等価であるということを意味している。
これには、中国の覇権主義的圧力を受け続けてきた朝鮮人である李 御 寧 (イオリョン)氏の民族としての誇りが感じられるが、21世紀はそのような時代ではないという意味では彼は全く正しいと思う。

地球全体、人類の運命を考えると、「縮退」という思想が真剣に語られなければならない21世紀だからこそ、日本文化・日本人の持つ「柔軟性」「合理性」「簡素化」「抽象化」「美意識」「咀嚼力」「磨く力」などなどが世界に必要とされている。
李 御 寧 (イオリョン)氏の視点は、わたしのいう「使用価値」に新たな光を当ててくれたものとして高く評価したいと思う。

    
 
0044 Re: 21世紀の日本を模索するパラダイム転換(1) 流水 12/29 14:51
 
【米国の戦略と日本】
昨日、BS2で成蹊大学教授越智氏が、アメリカブッシュ政権について見事な比喩を語っていた。
「頭はネオコン。心臓部は、米系多国籍企業。腕力は軍産複合体。手足は、宗教右派(クリスチヤンコアリション)というモンスター・フランケンシュタインである」と。
今回の大統領選挙は、このばらばらの複合体である政権を一つの力にまとめたカール・ローブなどの選挙参謀の戦略の勝利であると語っていた。

彼の言葉は、ブッシュ政権の性格を見事に言い当てている。その中で、これからわたしたちが注目しなければならないのは、モンスターの心臓部である共和党の主流である【米系多国籍企業】の考え方であろう。
彼らは、思想的にはネオリアリスト(現実主義者)と呼ばれるが、その中には大きく分けて二つの潮流がある。
国際社会を無政府状態(アナーキー)であると見る前提を同じくしながら、国家をバランス維持につとめる防御的な存在とするケネス・N・ウォルツらのディフェンシブ・リアリズム(防御的リアリズム)に対して、国家を世界的なパワー・シェアの極大化を目指す攻撃的な存在とするジョン・ミアシャイマーらのオフェンシブ・リアリズム(攻撃的現実主義)の二つである。

次期国務省長官に就任するコンドリー・ライス女史は、どちらかといいえば、オフェンシブ・リアリズム的思考の持ち主である。彼女の北東アジアへの認識は以下の通りである。

『北京との経済交流を支持する議論が存在するが、一方で、この国はいまもアジア太平洋地域の安定を脅かす潜在的脅威である。現在のところ、中国の軍事力は米国とは比べものにならないが、このような状態が永遠に続くとは限らない。明らかなのは、中国は台湾と南シナ海地域で、未解決の国益に関わる問題を抱えている大国だということだ。中国はアジア太平洋地域における米国の役割を嫌っている。要するに中国は、「現状維持(status quo)」に甘んじることなく、中国に有利になるようにアジアのバランス・オブ・パワー(勢力均衡)を変革しようと狙っているパワーなのだ。この点だけを見ても、中国はクリントン政権がかつて呼んだような「戦略的パートナー」ではなく、戦略的ライバルだということがわかる。』
『米国の対中政策には繊細さとバランスが必要だろう。経済的交流を通じて中国国内の変化を促進する一方で、中国のパワーと安全保障上の野心を封じ込めることが必要になる。米国は中国と協調を試みるべきだが、国益がぶつかり合ったときには、北京と敢然と立ち向かうことも辞さない態度が必要である。』

「国益に基づく国際主義を模索せよ」(P241〜268)より。ーコンドリー・ライス
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前任者のパウエル長官が、どちらかといえば、デフェンシブ・リアリズム(防御的現実主義)的傾向であったのに比較して、ライス女史はかなり攻撃的(タカ派)傾向が強いと考える必要がある。
ただ、現実政治の文脈で考えれば、米国に対中国強硬路線を取れるだけの余力があるかというと、ないといわざるを得ない。
イラクですら勝利を確定できない米国が、北東アジアにまで戦線を拡大する余裕はない。
これを見越した中国は、北東アジアの覇権をにらんでかなり戦略的に動いている。

北東アジアに関して言えば、彼女は対中国強硬論者のように見えるが、上記のようなアメリカの現状にその動きを縛られることは確実である。

こういう場合、戦略学から見ると、以下のような手が考えられる。
ライバルがバランス・オブ・パワーを崩そうとした場合の具体的な戦略として「ブラックメール(blackmail=恐喝)」と「戦争(war)」がある。これは、米国が弱小国を相手にした場合、頻繁にとる手法である。
恐喝と戦争は、メダルの裏表で表裏一体の関係にある。脅しだけでは、狼少年になり、その効果は半減する。戦争だけでは、費用だけが嵩み国力を消耗する。
だから、米国は弱小国を相手に時折戦争をし、その圧倒的な戦力を誇示して、恐喝の効果を最大限に発揮できるようにする。
これを考えると、これからも米国は、小さい戦争をし続けなければ、米国という国家の矜持を保てないというメカニズムを内包している、と考えておかなければならない。

しかし、いつもいつも弱小の相手ばかりではない。かってのソ連のように米国という国家の存亡をかけなければならない危険なライバルに直面する可能性もある。
その場合、バランス・オブ・パワーを保つために使う戦略として、「バランシング(balancing」と「バック・パッシング(buck-passing=責任転嫁)」という手法がある。

「バランシング」とは自国単独もしくは他国と協力しながらライバルに対する勢力均衡を維持しつつ、その力を封じ込め、必要とあれば戦争をして相手を負かすことである。これは、米ソ冷戦時代米国が取った手法である。
「バック・パッシング」は大国が脅威を与えてくる相手国に対して、他国に対峙させ、時には打ち負かす仕事をやらせることである。そして双方が消耗しきった時に大国の出番となる。これも冷戦時代、代理戦争としてよく取られた手法である。
他にライバルに追随、従属するバンドワゴニング(bandwagoning)もあげられる。

現在の北東アジアで米国がどのような戦略を取ろうとしているかといえば、1、現在の米国の軍事的状況 2、米国の経済的状況(国力) 3、米系多国籍企業の経済的要求(中国での利権)などを考慮に入れれば、間違いなく「バック・パッシング(buck-passing=責任転嫁)」という手法だと断言できる。
つまり、北東アジアにおける中国の覇権国家的野望に対して、日本を全面に出して米国の代理戦争をさせ、中国の国力を消耗させた上で、漁夫の利を得ようという戦略である。
当然ながら、この戦争には、相手の国内で民主的闘争をさせ、国内を混乱させる手法も含まれる。
チベット問題、新疆ウイグル自治区の問題、台湾問題、国内の経済格差(貧富の差の拡大)など、中国はこの種の問題は事欠かない。
この視点で、今年の中国問題を見てみると、見事に米国のバック・パッシング(buck-passing=責任転嫁)」戦略にはまっていることが理解できる。

ひるがえって、日本国内を見てみると、現在、右派を中心に、北朝鮮問題、中国問題など安全保障上の危険性を必要以上に声高に叫んでいる勢力があるが、彼らこそが米国のバック・パッシング(buck-passing=責任転嫁)」戦略の走狗であることが理解できる。
非常に簡単に考えると、中国の通常戦力はあまり強くない。海軍もきわめて脆弱。しかし、ミサイルと核兵器は強い。
つまり、日中戦争になると、日本の国土に核弾頭つきのミサイルが降り注ぐということを前提に対中国強硬論を語らなければならない。
つまり、闇雲に対中国強硬論を唱えている連中は、日本人が長崎・広島をはるかに上回る原水爆の惨禍にあってもよい、といっているのと同義である。
まして、実現が疑問視されているMD構想などに頼るなど愚の骨頂である。

対中国強硬論者の頼みの綱米国も、上記のような戦略に基づいていると考えれば、日本と中国が消耗戦をしてくれればしてくれるほど米国の利益になるのだから、簡単に日本を助けるはずがない。
これに比較すれば、ハンドインハンドさんが提唱している【無防備都市構想】のほうがはるかにリスクが少ない。

このような現状を考慮して、右派の現実主義者からは、東アジア共同体構想が発足している。
トヨタ、松下電器、三井物産、三菱商事などによって財政的に支えられた政官財の有力者が集う「東アジア共同体評議会」(会長、中曽根康弘)である。http://www.ceac.jp/j/index.html
つまり、米国と中国という東西の覇権国家に挟撃されている日本の生きる道を、【東アジア共同体】によって見出そうという発想である。
これは、かっての大東亜共栄圏構想に酷似しているが、その時代と決定的に違うのは、21世紀東アジアが世界経済の重要な位置を占めるに違いないという点である。その意味で、この構想はEUや米国にはかなり刺激的であることは間違いない。
フランスはじめEU諸国が、中国に武器輸出をし、米国が日本に武器輸出する。そして中国・日本が対峙し、東アジアの緊張の中心になる、という図式は、EUにも米国にも都合が良い。

しかし、これらの発想は、その根底に【国家】が不滅である、という前提が横たわっている。上記の戦略論も東アジア共同体構想も中国の覇権主義的傾向もすべて国家戦略という前提で構築されている。

わたしは、21世紀の潮流は、【国家】の役割が減退し、国家障壁が溶解(メルトダウン)していく所にあると考える。
人の広範な移動と移動時間の短縮、情報伝達の広がりと速度は、もはや国家権力で統御できない時代が招来している。
世界中に広がっている反米主義や嫌米主義、経済における反グローバリズムの流れは、押しとどめることが困難であると思う。

日本における反体制運動を考えるとき、米国の中国戦略、それに対する右派現実主義者の東アジア共同体構想、中国の覇権主義的傾向などを越えるグローバルな戦略的視野を提示しなければ、現実的影響力をもたないということを知らなければならない。
わたしのいう【使用価値論】は、その一つの試みである。




    
 
0043 Re: 21世紀の日本を模索するパラダイム転換(1) 平和の鉄人 12/20 22:25
 
0042: 百山様

拙い試論を長文にもかかわらず、お読み下さりありがとうございます。
私の意図するところは、将来の日本社会のあるべき姿を見出す端緒として、社会民主主義の可能性について考えてみたかったからです。
欧州社会民主主義へのアプローチは、まずそのための取っ掛かりと考えています。
今はまだ漠としていますが、日本を変えていくキーワードとして私自身は
政治における「分権」「多元主義」「自治」
経済における「社会民主主義」「相互扶助の原理」
社会における「共生」
などをイメージしています。

これらを結びつけた日本型社会民主主義論ができればいいななどと夢想しておりますが、どうなりますことやら。
何せ試論ゆえ事実認識に対する誤謬も多々あるかと思います。
何か気がつく点などありましたら、ご指摘いただけたら幸いです。
    
 
0042 Re: 21世紀の日本を模索するパラダイム転換(1) 百山 12/19 22:31
 
0041 平和の鉄人さん、克服しなければならないものも含め 仰せの通りだと思います。
いささかの「沈滞」状況に身を置いていますが、「かたち」の骨格となる考え方・実践と理解いたしております。
流水さんが、このスレッドで展開いたしておりますので 拝読させて頂いておりますが、「パラダイム」の方は より実論、小生のもやもやしている「かたち」は、より空論かと一人問答している次第です。

今後ともよろしくお導きの程 願い上げます。    
 
0041 ヨーロッパ型社会民主主義の可能性 平和の鉄人 12/19 20:39
 
アメリカ型資本主義に対抗する社会経済システムとしての欧州社会民主主義

前回の投稿(0015)ではアメリカ型資本主義の問題点と限界性について書きました。
そこで、これに対抗し得る新しい社会経済システムとしてヨーロッパ型社会民主主義の可能性について、考えてみたいと思います。

ヨーロッパで進む社会民主主義的潮流
二つの世界大戦以降、世界経済の中心的役割を果たしてきたアメリカですが、今世紀に入りこれまでの矛盾が一挙に噴出し始めています。
ベルリンの壁崩壊に象徴される東側社会主義国家の体制崩壊から、アメリカ資本主義一人勝ち状態によるグローバリズムへと続き、今世紀に入ってからは9.11事件を契機として戦争の拡散が続いています。
世界を俯瞰してみると世界経済の覇者としてのアメリカと、その横暴な一国覇権主義に振り回され続けている他の国々という構図が概観できます。
アメリカがこれほど強大な支配力を行使できるのは、圧倒的な軍事力を有していることもさることながら、アメリカ資本主義の世界経済に与える影響力があまりにも大きいためです。
こうした中で、一人勝ち状態になっていたアメリカ資本主義に、目に見える形で反旗をひるがえしている社会経済システム思想があります。
それが、ヨーロッパの社会民主主義です。
欧州の社会民主主義政党は、元々北欧のスウェーデンをはじめ既に20世紀前半から政権に参画している国も少なくなく、政権交代の担当能力を有していました。
そして近年では、全ヨーロッパで再びその影響力を、はっきりと広範に浸透させ始めたのは1990年代に入ってからです。
その背景にあるのは、1980年代より起こった世界的な新自由主義改革=市場原理主義への傾斜と、その後のアメリカ型資本主義によるグローバリズムの席捲に対する危機感があったためです。
このため、1990年代後半にはヨーロッパ各国で相次いで社会民主主義政党を中心にした中道左派政権が誕生しています。
社会民主主義がヨーロッパで支持されたのは、弱肉強食型の市場原理主義に対抗し得る可能性のある社会思想として、市民が現実的な政治選択をしたからに他なりません。
現在のところ世界中で対従属的関係ではなく、アメリカ資本主義に疑義を唱え、実効性ある政治権力を行使している社会経済システムは、この欧州社会民主主義をおいて他にはないでしょう。
そこで、新しい社会経済システムとしての欧州社会民主主義の可能性と問題点について考察してみたいと思います。

「第三の道」の選択〜市場原理主義との決別
1970年代後半に登場したサッチャー政権によって一旦は市場主義改革への道を選んだイギリスですが、1997年5月の総選挙で18年ぶりに保守党は労働党に政権の座を譲り渡しました。
サッチャーの市場主義改革は、貧富の差を一層激しくし、医療・教育の荒廃をもたらして失敗に終わったのです。
これに対して、イギリス国民は実に18年ぶりという政権交代の劇的変化を選択し、ブレア政権を誕生させました。
このことは一体、何を意味しているのでしょうか。
ブレア首相は、社会学者アンソニー・ギデンズ教授による「第三の道〜社会民主主義の刷新」を理論的根拠として、サッチャー・レーガン路線による市場原理主義でも旧来の社会主義でもない「第三の道」を提唱しました。
また、これとほぼ時を同じくして、1997年6月にフランスでジョスパン社会党連立政権、1998年10月にドイツでシュレーダー社会民主党連立政権が相次いで誕生しています。
更にこれを遡ること1996年4月にはイタリアで「オリーブの木」連合による中道左派政権が誕生するなど、世紀を跨いでEU15ケ国のうち実に13ケ国で、社会民主主義政党による中道左派連立政権が相次いで生まれたのです。
その後、いくつかの国で保守回帰への揺り返しはあったものの、基本的には現在でもEUの多くの国で社会民主主義政党が参加する連立政権よって政治が運営されています。
こうした一連の政治の流れから見ても、欧州ではアメリカ型資本主義とは明らかに異なる、別な社会経済システムを指向していることが伺えるのです。

新しい社会民主主義の特徴とは
現代の社会民主主義は、かつての古典的社会民主主義の考え方とは異なり市場経済の機能を一定程度認めた上で、そこから生じる様々な政治的社会的矛盾に対して政府が調整的な役割を果たしていこうというものです。
従って従来の社会民主主義的政策であった主要産業の国有化や統制的経済は放棄され、その変わりに市場経済を前提として、公正で透明性のあるルール作りが、政府に期待される役割となっています。
アメリカ型資本主義と根本的に異なる点は、アメリカ型が市場原理主義の考え方に基づいた実質上の市場放任主義であるのに対して、ヨーロッパ型新社会民主主義は市場経済を手放しで放任することなく、国民多数の利益が損なわれないように一定のルールを定めることにあります。
それらの政策は労働(雇用)、教育、社会保障(医療・福祉)などに特徴的に現れているのです。
アメリカ社会では弱肉強食の経済原理で所得格差が一方的に拡大していくのに比べ、ヨーロッパ社会では国ごとの違いはあるにせよ、思いやりとゆとりを基本的理念とした人間尊重の福祉・社会保障重視の政策が実施されています。

社会民主主義の欠陥
一方、問題点をあげるならば、ヨーロッパ型社会民主主義は依然として、かつての社会民主主義で批判されていた問題を解決しているとは言えません。
それは、社会民主主義が未だに戦争を回避する手段としては、充分に機能していないのではないかということに対する疑問です。
第一次世界大戦時、社会民主主義政党(第二インターナショナル)が戦争推進の立場を採ったことに対して、日和見主義・修正主義であるとして共産主義の立場から批判されています。
今回のイラク戦争においても、フランスやドイツは戦争反対の立場を貫いたものの、イギリスの労働党・ブレア政権はアメリカ・ブッシュ政権と共に大義なき戦争を遂行しており、この点からは批判すべき点が多いと思われます。
もっともイギリスはアングロ・サクソン型資本主義の発祥地であり、労働党政権になった現在でもアメリカに協調する姿勢を見せ続けているということから考えれば、ヨーロッパの中では他の国々とは一線を画しているということを念頭においておく必要があるでしょう。
また労働党・ブレア政権の政策に限って言えば、保守党政権時代と比べて地方分権や自治制度の改革以外に目立った変更点はなく、この点からもアメリカ資本主義との緊密な関係性にあるイギリス独自のスタンスが見てとれます。
このようにブレア政権によって提唱された「第三の道」路線は、戦争遂行の立場を採ったことによってかなり色褪せた感もあります。
事実、ブレア政権による「第三の道」改革は、アメリカへの追随という問題以外にも、サッチャーの新自由主義改革路線を中途半端に継続したことで、その本筋において国内はもとより国際的にも失敗の烙印を捺されつつあるようです。
今や「第三の道」というスローガン自体が、労働党・ブレア政権の失政によって手垢の付いたものとなり、他の国の社会民主主義政党からはほとんど毛嫌いされているほどです。
こうしたことから思想的理念だけではなく現実の政治運営に対して、どう社会民主主義が実体として反映されていくのか、その欠陥部分も含めて総括的な理論的進化が必要とされています。
現実的には、欧州においても社会民主主義政党による単独政権は数少なく、大抵が変則的な連立政権で政治運営されるケースが多いため、本来あるべき思想・主義のストレートな実践は困難であり、いくつもの制約を受容しなければならないという限界があります。
従って、イギリス以外の欧州社会民主主義にしても、将来において自国以外の国々に対して、抑圧的に動かないという保障は今のところありません。
この点で今後、ヨーロッパの新しい社会民主主義は、戦争と貧困の問題解決を、ヨーロッパ社会以外にも広げていくことができるのかどうかが問われています。

ヨーロッパ型社会民主主義の可能性
しかしながら他方で、イギリス以外のヨーロッパ社会では政権の一翼を担う社会民主主義が、自国の抱える様々な矛盾解決に向けて一歩一歩確実な地歩を築きつつあるのも事実です。
ヨーロッパ諸国では国ごとの政策相違点はあるものの、全体的に押しなべて他の地域・国家にはない高度な福祉・社会保障制度を実現しています。
この点ではアメリカと比較して、遥かに個人を尊重した豊かな社会生活が保障されているのです。
これはヨーロッパに住む市民の、歴史に学ぶ高い政治意識によって支えられています。
そのことは「第三の道」がブレアによって提唱される遥か以前、1989年には既に労働者の権利や弱者保護を盛り込んだ欧州社会憲章が、11ケ国の首脳によって採択・調印されているという事実を見ても、ヨーロッパ諸国がアメリカ・イギリス型資本主義とは全く別な路線を歩もうと決意し続けてきたことが伺えるのです。
また、これと連動して欧州共同体(EC)から1993年発足の欧州連合(EU)に向けた移行の動きがあったことは、ヨーロッパ型社会民主主義を考える上で押さえておかねばならない重要なファクターです。
いずれにしても新社会民主主義が、未来を担う有効な社会経済システムになり得るかどうかは、貧困の解決と同時にそれが戦争回避の手段としても実効性あるものなのかどうかという点を、克服できるかどうかが重要なポイントであるように思います。
この点では、2004年3月14日に行われたスペインでの総選挙で、イラクからの派兵撤退を公約に掲げていた社会労働党が、8年ぶりの政権交代を果たしたことが世界中に衝撃を与えたことは記憶に新しいところです。
スペイン経済はそれまで比較的堅調であったにもかかわらず、国民が政権交代の道を選択したことに重大な意味があります。

EUに対する評価
こうした中で、2004年10月29日には加盟25カ国の首脳がローマに集まり、ヨーロッパ統合の基本条約となるEU憲法に調印、欧州社会の歴史は新たな段階に入りました。
EU憲法の批准をめぐっては、困難な課題も数多く抱えているため今後、紆余曲折も予測されています。
また、ヨーロッパ型社会民主主義の理念とEU統合が、どのような整合性をとりながら進んでいくのかはまだ未知数です。
ただ、ヨーロッパにおいては社会民主主義者だけではなく、多くの人々が欧州はアメリカ型の資本主義ではなく、別な形の「社会的」資本主義の道を歩むべきであると考えており、この点で政策面において同一方向に向けた共同歩調を採っていくことができるベースが整っていると言えるでしょう。
そういう意味では現在のEUの運営主導権は、社会民主主義的思潮が基軸になっているとも言えるのです。
しかしながら、今後アメリカの一極支配構造が崩れ世界が多極化した場合、EU経済へのウエイトが相対的に高まっていく中で、社会民主主義の描く未来としてはどのような新たな段階への可能性を示すことができるのでしょうか。
9.11事件以降のアメリカの単独行動主義と中東政策での度重なる失敗の連続は、アメリカ国家の衰退を予感させるに充分なものです。
イラク戦争を強行することでアメリカの「双子の赤字」は益々膨らみ、その後遺症による長期的ドル下落傾向は、将来的にドルの基軸通貨としての崩壊を招く可能性すらあります。
そこで必然的に浮上してくるのは、ドルに変わる世界基軸通貨としてのユーロの存在です。
国際金融資本や多国籍企業が、その活動拠点をアメリカからヨーロッパへと移し始めた場合、EUが世界大戦前のように再び世界経済の中心地として立ち現れることも充分考えられます。
その時、ヨーロッパが新たなグローバリズム経済の中心点として、第三世界に対し抑圧的態度をとり始めないという保障は今のところどこにもありません。
欧州の社会民主主義思想が戦争や貧困といった問題の解決に対し、あくまで自国中心的ではなく世界に対しても同様に、その普遍的価値を共有していくことができるかどうかがその評価の分かれ目となるでしょう。

ヨーロッパ市民の政治的選択と未来
このような社会民主主義と欧州統合との整合性の問題などクリアーにしなければならない課題はあるにせよ、総体としてアメリカに対抗できる社会経済システムの構築を目指すヨーロッパ諸国が、様々な難題を乗り越えながらも、その動きを止めることなく進んでいくのはほぼ間違いないでしょう。
平和や貧困の問題の解決を究極の理念とし、社会保障、福祉、環境などの政策を重視する共生型社会を目指しているのが、ヨーロッパにおける新しい社会民主主義の姿であるならば、最終的には地球的な視野にまで問題を広げて捉えていかねばならないからです。
ヨーロッパでの相次ぐ社会民主主義政権の誕生は、20世紀の終わりになって突如としてブームになったわけでも単なる偶然の産物でもなく、アメリカ型資本主義に対するヨーロッパ民衆のアンチテーゼとして確信的に政治選択されたものと判断してよいのではないかと私は考えています。(続く)

    
 
0040 Re: 技術と技法の違い 流水 12/13 13:40
 
「交換価値」と「使用価値」については、いまだ言葉がこなれておらず、もう少し的確な言葉を模索中です。
下記に書いた西岡常一翁のものの見方は、わたしのイメージしている【使用価値】にきわめて近いものであり、同時に教師のあり方に貴重な示唆を与えてくれていると思うので、ご紹介したいと思います。

奈良の法隆寺、薬師寺西塔の建立などにかかわり,日本一の「宮大工」と称された西岡常一翁は多くの言葉を残している。
わたしも京都在住時代,何度か法隆寺・薬師寺・唐招提寺などを訪れた。特に、唐招提寺の美しさには魅せられた。
唐招提寺の伽藍を見ていて、そのたたずまいの静けさ、日の光に照らされた屋根の曲線の美しさ、シンメトリックな伽藍配置など一種抽象的な美しさに息を呑んだ記憶が鮮やかに蘇る。
わたしが足しげく訪れた当時、法隆寺,その隣りの中宮寺などが修復を行っていた。
その棟梁が、西岡常一翁である。

 子供たちが、よく謎謎を楽しむのに、「唐招提寺は誰が建立したか」と問い「鑑真和上」と答えると、「ブー」と言って,「残念でした。大工さんです」と答えて喜ぶ場面に出くわすが、これは現在の歴史学習又はその風潮の欠陥をたくまずして言い当てている。 確かに歴史学習では、唐招提寺を建立した人=鑑真和上で正解であろうが、この知識が一体何なのかはあまり問わない。
せいぜい、鑑真和上の日本上陸までの苦労を語るぐらいである。

 しかし、法隆寺と言い唐招提寺と言い薬師寺と言い、このような巨大な木造建築の工法、あのような巨大な瓦(幅50cm以上)の葺き方、どのような木材が用いられたか、釘はどのような釘か、木を削る道具は、誰が設計をしたのか、どれだけの大工が参加したのか、これを語るほうがはるかに「歴史」の中の人間が身近になり生き生きと躍動してくる。
つまり、歴史の闇の中に埋もれた名もない職人達に光をあてたほうがはるかに歴史が身近になりその息遣いまで聞こえてくる。

 【鑑真和上】の日本上陸までの辛苦や仏教布教に賭けた無私の情熱を語る事も意味がないとは思わないが、歴史の中に埋もれた民衆の息ずかいを可能な限り語る事のほうがより重要な事のように思える。

 西岡翁は語る。

★「設計図は大学の先生でもできますが、実際には施工図というものを現場でかきなおさまければなりません、全部」「建築では隅が一番難しいのですが、その隅の図面なんか書いてくれるところはどこにもありません。そやから、外の形から隅の形を割り出して,自分で図面をひかないといけませんな。」

★「金堂や西塔ができておめでとうございます、と新聞記者に言われるのだが、『ちっともめでとうないねん』と返答しています。本当は、これから大地震があったとか台風があったとかいう時に、東塔は倒れたけれども西塔は立ってあったということにならんとうれしゅうないねん。(笑い)」

★「わたしらの方でも一つの堂を建てるにしても伽藍を考えて堂を作れ・・」

★「塔の垂木は、あんまりきちっと揃った垂木を並べたら、かえって固い感じになる。ちょっと,歪んだようなのを入れたといたほうが柔らかい感じになる」

★「電気鉋みたいなものとか、たてびきの鋸でビュウと直線にひいた材は、木目に関係なく一応きれいです。だけどこれは、木の素材として実際の命を大切にしているのやなしに、まっすぐに機械で切っているだけです。木がちょっと曲がっていても反っていても、お構いなしに機械でぴちっと切ってるわけです。

★だけど槍鉋の論理は、パーんと木を割って木の木目に従って、粗木造りされたやつに槍鉋をかけるのだから、筋に従って削っていることなんだ。だから槍鉋は木の命を殺さない。木を生かしながら,木を仕上げていると言う事になる。・・つまり、木に『もたれていく』ということですな。木の性分に『もたれて』・・つまり、そう言う事が【技法】だとわたしは思います。技術ではなくて【技法】−技術というのは,歪んだものをまっすぐにする、それが技術です。

★だけど曲がったままそのまま生かして,木にもたれて仕事を仕上げて行く。これが【技法】だと思います」

 西岡翁の発言は、深い。

特に、槍鉋の論理には深く共感した。
木を生かしながら、木を仕上げて行く。その通りである。しかし、それは難しい。教育で言うと、子供の特性を生かしながら子供をいかしていく。それを西岡翁は、木に【もたれていく】と語る。

わたし流に言わせれば、目の前の子供に即してその子供の資質に【もたれて】育てていくと言う事になる。西岡翁に言わせれば、それがかけがえのない一本一本の木を本当に生かしていく事であり、仏教流に言えば【木の心】を大切にする事である、という事になる。
このような論理は、現場の実践者以外には出てこない。これを西岡翁は、【技法】であると言う。

歪んだものをまっすぐにするのが【技術】であり、まっすぐにすると言う当為を優先し、曲がったものも構わずまっすぐに切ってしまう。だから、技術優先の思考は、木の資質を無視し木の心を生かせない。

この発言は重い。

教師の研修は、ほとんどがこのまっすぐに切る発想で貫かれており、教師の技術とは電気鉋の使用法に過ぎない、と思う。
西岡翁が【技法】と呼ぶ槍鉋の手法こそが、今の教育に求められるものであり、その為には木の【心】を大切にする姿勢が求められる。だからこそ、【法】なのである。【法】とは、のりと解して欲しい。「のり」を超えないと言う意味の【のり】である。
西岡翁の言う【のり】とは、木の資質、心を無視した切り方をしない、という【心の掟】である。
この西岡翁の発言は、電気鉋の論理に慣れたわれわれ教師にとって根本的な疑問を呈している、と思う。

あまりにもさまざまな技術が導入され、試され、流行し,捨てられて行った。優秀な教師とは、その時々の技術にいち早く食いついたないしそれを巧く導入した者を指し、指導主事とはそれを噛み砕いて説明する能力に長けたものがなる、というのが一般的である。
槍鉋の論理を大切にするものは、時代の流れに取り残され、酷い時には「無能者」のレッテルまで貼られる。

 槍鉋の論理は、分かりにくい。
【木によりそう】とは、法則化できる論理がない、という事である。一本,一本の資質・心を大切にするとは、子供によって育て方を変える、という事である。
つまり、効率性の論理からすれば、全く非効率の営為なのである。

さらに、まっすぐな木ばかりを組み合わせるのでなく、様々な木を組み合わせそれをトータルな設計図に仕上げ、どんな地震にも負けない建築物に仕上げるには、細部に至るまでの細かな施工図が必要になる。
さらに、百年・千年単位での建物の沈みこみ、ゆがみまで計算に入れた施工が必要になる。

 教育とは、このような細部からトータルな完成図に至るまで全てを考慮に入れた真に【職人技の極致】が求められるものである、と思う。
教師が専門職であると胸を張るつもりなら、少なくとも槍鉋の論理が分かりにくいという発想を取るべきではない。

 ある種の理念によりかかって教育論を展開する人が多いのは、教育に対する【技術】偏重論と【技法】重視論の違いを分かっていないと言う事が出来る。
わたし達教師の陥りやすい欠点は、一度の成功体験を普遍的成功体験に拡大する傾向がある事である。
しかし、その成功体験を微細に点検して見ると、特定の子供に自分の方法論がたまたま合っただけというケースが多々ある。
つまり、多数の子供達の中の一部の子供に自分の方法論がぴったり当てはまっただけかも知れないのである。

これは、西岡翁の木に【もたれる】事がたまたま出来たと言う事であろう。

しかし、木は無数にあり、子供も無数にいる。わたしには、いまだどのような木にも【もたれ】て、木の命を生かしきれる自信はない。
わたしに出来た事は、目の前の子供の現実を直視してそこから如何に育てるかを考える、という普通の営み以外になかった。

西岡翁のように、【木をきれいに削ったものは腐れる。槍鉋で削った木は、少しずつ凹凸はあるが、やわらかさがあり、長持ちする。何故なら、きれいにつるつるに削った木は、すぐ水が入る。だから,腐る。長持ちしない。槍鉋で削った木は,水が入らない。何故なら、木目にそって削るから,木目を痛めない。だから、長持ちする。遠くから眺めるとなんとも言えないやわらかさが生まれる】と言い切れない。

 西岡翁の言葉は、日本の教育(社会)特に高度成長期以降の教育(社会)の欠点を見事に抉り出しており、それに荷担したわれわれの罪を指弾している。
われわれは【きれいに削ろうとして】木目を無視し、長持ちしない建物を作ったのではないのか。
われわれは【槍鉋で削る】手間と時間を惜しんで、一本一本の木の命を無駄にしたのではないのか。
われわれは、近くで近視眼的に木を見すぎ、離れて見た時の木のやわらかさ、一本一本が本来持っている味を消し去ったのではないのか。
教育に携わる人、教育改革を語る人、子供を持っている人は全ては、もう一度西岡翁の言葉を噛み締めた方が良い。

★【あなたは槍鉋をかける手間と時間を惜しんではいませんか】
★【あなたは一本一本の木の命を大切にしていますか】
★【あなたは設計図を描いただけではないですか。精密な施工図を描いていますか。  一番難しい隅の施工図を書いていますか】
★【あなたは千年単位の見とおしを持って建物を建てていますか】と。

    
 
0039 Re: 21世紀の日本を模索するパラダイム転換(1) ウミサチヒコ 11/26 12:43
 
流水さん

民主主義のための精神教育は必要ですが、もしそれが「少数意見の尊重」「多数の横暴の阻止」ということを道徳的・理念的に教えるだけでは、「最大公約数」「多数決原理」という、もうひとつの理念・現実との間で、二律背反に子供は迷うでしょう。教育というのは結論を出さないでもいいと思いますが、その迷う現実、すなわち国政の現実をどう教えるかです。教えなければならないと思います。小選挙区制・大選挙区制、死票の有無、そこから導かれる二大政党制・多党制、大統領制と議員内閣制の違い、まともな教育をしたら「偏向教育」にならざるをえません、現実を曲げる考えを含んで教えることになるのですから。

そこで、先ほどの二律背反は、私ならこう教えます。
1)死票のない選挙制度で議員を選ぶ⇒少数意見の(正当な)尊重。
2)議事を公開して多数決による議決⇒多数の横暴の監視、最大公約数・多数決原理による決定。
これで、相反する二つの理念のグループはみごとに統一(連結)されました。もめごとはないはずです。

しかし、民主的手続で合法的に成立したファシズム・ヒトラーの問題は、これは蔵龍隠士さんにも少し聞いてみたのですが、やっかいです。当事のドイツは比例区だったようです。良くわかりませんが、座標がヒトラー的第2象限に大きく振れていたことは確かです。ここの分析は泣き所です。

これから昼飯を食べて銀行・税務署回りします。    
 
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