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1008 安倍元首相の国葬を機に「権威と権力」(なだいなだ著)を再読する 笹井明子 2022/10/05 00:23:54
岸田自民党総裁は9月27日、国民の過半数の反対を押し切って、安倍元首相の国葬を断行した。

国葬儀は、自衛隊員による遺骨の随行、防衛省正門前を通過しての会場への移動、19発の弔砲、音楽隊の演奏等、全てが自衛隊の仕切りですすめられ、「国葬」とは、国家権力の基盤は軍事力の支えにあることを、あからさまに周知させる儀式であることが強く印象付けられた。

式次第に於ける岸田総理や菅元首相の追悼の辞は、仲間内の「友情話」で感動を演出する一方で、「あなたの判断はいつも正しかった」と言って、特定秘密保護法、平和安全法制、改正組織犯罪処罰法等、国民の間に多くの反対があった法案を成立させたことを、強行採決という手法を含め、正当化するメッセージに仕上げられていた。

考えてみれば、「国葬」とは、「国」という名の「権力」が、国民が「偉業」を称え、敬うべき人物を選定し、「荘厳さ」「厳粛さ」の演出で「権威付け」を行い、「黙祷」や「半旗」等による、強制的、あるいは自主的な「弔意の表明」を国民に求める行為に他ならない。

しかし、そもそも「国民主権」を明示する憲法を持つ戦後民主主義国家の日本に於いて、国民の奉仕者である「公務員」=「政治家」に対し、全国民が弔意を表すことを求められることなど、本来成り立ちえない。

今回岸田総理は、その理を無視し、国会審議を経ることもなく、閣議決定で国葬を決定したが、安倍氏を始め自民党議員たちと旧統一教会の深い関わりが明らかになるにつれて、国民の反対の声が噴出。岸田総理は、「黙祷」や「半旗掲揚」等、国民に弔意表明を求めることを断念し、「国葬」の意味合いが半減した。

更に、ニュース等で目にした限りでは、当日の式次第も、式場の設えも、16億円超の国費を費やしたにしては、薄っぺらな代物で、「荘厳」「厳粛」とは程遠い演出となって、結果、多くの国民は「権威」を感じることなく「冷めた感覚」で受け止めたように見える。そのことは、自民党幹部の「終われば皆やってよかったと思う」という楽観論とは裏腹に、国葬後の世論調査でも、国葬への評価も内閣支持率も、共に低いままの状態が続いていることに表れている。

こうした一連の「国葬儀」騒ぎの明らかな失敗を、むなしい思いで見ながら、私が思い返していたのは、かなり昔に読んだ、なだいなださんの著書「権威と権力」に記されたメッセージであった。

なだいなださんは、著書の中で、「権威は、ぼくたちに、自発的にいうことを聞かせる。しかし、権力は、無理にいうことを聞かせる。この権力と権威が二重写しの一つのイメージを作っていて、それがぼくたちにいうことをきかせ、まとまりを作らせようとする。」
しかし、「本来社会にあるべきなのは権力による押し付け、一人が別の人間を支配することではなく、説得する人間が、説得される人間にも自分にも共通するものを見つける『理』による説得」であり、「理によって自主的に守られる法律こそが最高の法律である」
「権力をとったものは、一度とった権力をなんとしてでも守ろうとする。それが議会制を変質させてしまう。権力そのもの、権力支配という考えを否定しなければ、同じことの繰り返しだ。」と指摘。
その上で、「まとまりのある社会ではなく、権力も権威もない、調和のとれた社会を目指し続ける」ことの大切さを訴えている。

カルト集団の力を借りてまでも権力の座を守り続けようとした政治家の国葬の強行に、心底ゲンナリし、反対しても、反対しても、実施されてしまう無力感に陥りそうになっていたが、考えてみれば、国民の大勢が安倍氏の国葬に様々な形で反対し続け、今もなおNOの意思を示し、政治に軌道修正を求め続けているというのは、大半の国民が「理の政治」「調和のとれた社会」を求めている証ではないだろうか。

今、私は、なだいなださんの提言をヒントに、市井の人々の「調和への意志」に信を置いて、これからも希望を失うことなく、そうした人々と共に歩みを続けて行きたいと思っている。