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0942 令和の棄民政策のはじまり! 流水 2021/08/09 09:51:22
昨年2月と3月、わたしは、現在の自民党政権に「危機管理」はできないと書いた。

危機管理の本質(コロナウイルス雑感)
https://blog.goo.ne.jp/rojinto_goken/e/9f1b42b6f68ba438e81b2a8ea1ce8981
病窓から見る娑婆(シャバ)の景色
https://blog.goo.ne.jp/rojinto_goken/e/161906a139628b1492c751f43eb12b09

彼らに危機管理ができない理由がいよいよ誰の目にも明らかになってきた。

以前にも何度も指摘したが、百年に一度のような国家的危機に際しては、為政者の腹の括り方が決定的に重要な要因になる。

🔶腹の括り方とは何か

一言で言えば、【責任を逃げない覚悟】である。同時に、周囲に関するいかなる忖度も排除する覚悟である。

さらに重要な事は、自らの専門外の事は、信頼できる専門家に全てをゆだねる度量の広さが必要。自らが信頼し全てを委ねた部下とは「死なばもろとも」の覚悟が求められる。

こういう覚悟を持つためには、【危機の本質】を見抜く知性と全てを科学的・合理的・論理的に認識し、決して感情に流されずに物事に対処する理性が求められる。

同時に国民に対しては、@本当の事(事実)を知らせる覚悟A国民一人一人が納得できるまで、丁寧に説明するB為政者の人間性が滲み出るような言葉と語り口が必要(政府に対する信頼感は為政者の言葉以外ない)Cどんなに絶望的な状況に陥っても、国民に未来に対する希望を失わせるような語り掛けをしてはならない。

(※人が絶望に陥るのは、絶望的な状況に陥ったためではない。何もできない自らの無力に気づいた時である。戦後、焼け野原になった東京の廃墟に響いた「リンゴの歌」には、何もなくても生きようとする希望があった。為政者はその事を決して忘れてはならない。国民に寄り添うとは、国民の生きようとする力を信じ、それに寄り添う覚悟を言う)

残念ながら、菅首相や現在の菅政権の閣僚、現在の自民党や公明党の議員たちにその事を求めるのは、【木に縁りて魚を求む】ようなものだ。

理由は単純明快。彼らは、決して「責任」を取ろうとはしない。「責任」を取る覚悟の無い奴は、必ず責任を逃れる口実を作る。そして、「責任」を取る覚悟の無い奴に限って【権力】に固執する。そして、権力者たちの責任逃れの「口実」づくりのプロが、霞が関の官僚。何度も指摘した【東大文学】や【ご飯論法」は、その最たるもの。

日本における政治のプロとは、この種の話法を自由自在に操り、責任の所在を常に曖昧模糊としてしまう連中の事を指す。

この種の論法は、日本の政治では珍しい事ではなかったが、それでも、以前の自民党政権には、このような【ごまかしの政治】を潔しとしない「節度」と「理性」と「恥の感覚」があった。

これが失われたのは、小泉政権以降である。私流に言わせれば、狂言の「太郎冠者」のように、権力者を煙に巻いてたぶらかしたり、誤魔化すのは、弱い者の生きるための知恵のようなものだが、この手法を権力者が取り入れたのが小泉政権である。

小泉政権流の「国民たぶらかし」の結末が、現在の郵便局。昔の郵便局のサービスと現在の不祥事続きの郵便局のありようを見れば、一目瞭然だろう。

これを普遍化すれば、小泉流郵便局改革が、【新自由主義的経済論】に基づく改革。そして、その改革理念に基づく職員管理が、数々の不祥事を引き起こした。そして、その不祥事のつけは、立場の弱い現場職員に顕在化するという事が良く分かる。

この小泉流改革(新自由主義的改革)の担い手が、現在の清和会政権(安倍・菅政権)。彼らは小泉ほどの役者ではないが、権力欲は小泉と比較にならないほど強い。

小泉純一郎は、自らの役割を終えたら身を引く、という節度があった。だから彼には権力者に特有の「あくの強さ」がなかった。これが現在でも小泉純一郎が人気がある所以。

しかし、安倍にしても菅にしても、「身を引く」などという節度など、どこにもない。あるのは、自らの【権力に対する執着】のみ。

責任感がなくて権力に対する【執着=執念】が際立つような為政者を持った国民は不幸である。

民主国家においては、権力側が提示する政策が国民のためにならないなら、その政党は選挙で敗北し、権力を失う。権力を失いたくなかったら、如何にすれば、有権者である国民の支持を得られるのかを必死で考える。野党の方は、どういう政策を打ち出せば国民の支持を得られるのか、必死で考える。与野党の切磋琢磨のプロセスこそが、民主主義の要諦。
政権交代こそが、政治の活性化の最大の要因になる。

この政権交代がないため、今や自民党政権は、為政者としての最低限の矜持すら失っている。

🔶菅政権のコロナ対策

菅政権が突如打ち出した【コロナ中等症入院制限】政策。メディアやネットで、袋叩きに近い状況だが、わたしは菅政権の体質を考えれば、当然の政策だと考えている。

☆菅政権のコロナ対策
(1)【最悪の事態を想定して対策を考える】という危機管理の要諦が全く理解できていない。
(2)パンデミック対策のグランドデザインが描けておらず、誰が責任者なのかが明確でない。無責任体制の対策だから、誰も真剣ではない。
(3)毎日変わる感染状況に追われ、「検査⇒隔離⇒治療」という基本的流れができていない。
(4)世論の風向きに一喜一憂するあまり、世論対策的政策変更(ぶれ)が多すぎる⇒一貫性がない。 ※本質的対策でなく、批判をかわすための対策のため、一貫性がない。
(5)科学的知見に対する軽視が酷すぎる。⇒専門家(厚労省のお気に入りが多すぎるが)の意見を都合よく利用する姿勢ばかりが目立つ。 
(6)東京オリンピック、パラリンピックの強行が、国民の意識を【個人中心】に変容させた。⇒7割近い反対意見を無視して開催し、日本選手の活躍で国民意識が変わるというオリパラの政治利用姿勢が多くの国民の政府に対する信頼感を喪失させた。⇒政府はわれわれを守ってくれない。【自分の身は自分で守れ】意識に変容させた。

※パンデミックの対応⇒自分たちの社会は自分たちで守ろうという社会意識が最重要。にも拘わらずオリパラ強行⇒コロナ感染爆発を招来した菅政権の姿勢は、このような国民の社会意識をも崩壊させつつある。バブル方式の徹底でオリパラは感染爆発には関係ない、などという官僚答弁(屁理屈)は、このような国民感情の個人化に拍車をかけている。

(7)今回の【中等症患者の入院制限、自宅待機】政策は、菅政権が【棄民政策】に舵をきった、と考えなければならない。2年前、私の妻は、肺炎で入院し、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれた。それでも現在の基準からすれば、中等症の1か2の入り口だろうと思う。呼吸ができず苦しんでいた妻の姿を脳裏に刻み込んでいるわたしから見れば、今回の菅政権の政策は、「未必の故意」による殺人にも匹敵する暴政だと思う。

菅戦前型ファッショ政権の正体!(国民には何も知らせる必要なし)
https://blog.goo.ne.jp/rojinto_goken/e/fdee20ce40bab766b0aab4e9412de80f
でも指摘したが、今回の中等症患者の入院制限、自宅待機政策は、菅政権の本質である。

戦前、満州の荒野に置き去りにされた開拓民やインパール作戦で戦いの後に無残な死を遂げた兵士たち、指導者の無策で命を落としたノモンハン事件の兵士たち、沖縄戦で死亡した多くの島民たち。この国の為政者たちの棄民政策をあげつらえばきりがない。清和会の安倍政権、菅政権もこの系譜に属する。

わたしは、30度を超える札幌の猛暑の中、50キロ競歩、男女のマラソンに挑む選手たちの姿が、精神論で無謀な戦争に駆り出された若い兵士の姿にダブって見えた。

同時に、この種の精神論の背後には、必ず大きな利益を目論む政商の姿がある事も知っておかねばならない。電通などはその代表。戦前から国策会社として有名。
※電通 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A

今回のオリパラ狂騒曲(TVは完全にオリンピックに占拠されていた)は、いよいよ日本が戦前型ファシズム国家に変容しようという萌芽だと見なければ本質を見誤る。