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0918 戦後史を見直す(2) 名無しの探偵 2021/03/04 21:26:32
1,二年前のコラムでは、東京裁判に関するテーマなどに絞って論じたが(2018年)、今回では、「戦後史」の見直しを現在の時点まで広げて、日本の「戦後」を考えていくというテーマに変更した。その理由は、次の点にある。
@まず、終戦直前における、広島と長崎への「原爆投下」の「問題性」である。最近になって、ようやく戦後75年目にして国連での「核兵器禁止条約」が締結された事情が出てきたからであること。
A次に、安倍政権になってから、安倍晋三首相は「戦後レジームからの脱却」を唱え、実際に、従来の通説である「内閣法制局」の政府見解であった、集団的自衛権の行使容認は憲法9条の下では認められないという解釈を変更して、集団的自衛権の行使容認は憲法9条に違反するものではないとして、閣議決定で解釈を変更したのである。

以上の2点を順次、見て行こう。
原爆投下から75年目にして、世界は「核兵器禁止条約」を締結して、その条約を発効させる段階になったことである。日本の学者(憲法学や歴史学)はあまり言及していないが、、私は「何故、条約の締結まで75年もかかったのか」という疑問がある。この75年はあまりにも長いと思っている。何故か。核兵器保有国は9か国となり、核拡散防止条約と言いながらも、実際には「拡散」した。また、格保有国は、この条約に反対していること、とりわけ、アメリカと同盟を結ぶ唯一の「被爆国」である日本政府は条約を批准せず、アメリカの反対に賛同していることである。これが現在も多くの「被爆者」(大半は高齢などで亡くなっている)が被爆の後遺症などで苦しんでいることを日本政府が無視していることを意味している。また、安倍政権は「黒い雨」訴訟においても「控訴」したことは、この問題(被爆者の人権の無視という信じがたい態度)と関連していることを物語っているのである。

しかも、アメリカ政府は、終戦直前に二度も日本の都市に「原爆を投下」したことの正当性」を現在も継続していることである。具体的には、原爆投下は戦争の被害(米軍の被害は計り知れない)を避けるために「必要」だったというものである。この「正当性」説に、アメリカの研究者などが、「異論」を唱えているという新しい局面も出てきた。(参考文献:「もうひとつの日米戦後史」オリバーストーン監督、、鳩山由紀夫他2名の共著)

本稿では、要点のみ述べる(上記の著書などでは詳細に論じられているが)。

オリバーストーン監督は、もしも、原爆投下の政治的な決定を下した大統領がトルーマンではなく、ローズベルトの副大統領であった、ヘンリー・ウォレスであったら、彼の思想(武力の行使ではなく、話し合いで戦争を終結させるという考え方)からして、すでに戦争の継続が困難になっていた日本に原爆投下の決定を下さなかったという「仮定的」な推論であり、実際に日本は「和平工作」を模索していたなどの事実である。また、ソ連が日本を攻撃するという問題もあったので、戦争の「終結」を急いだという事情もある。ここから、アメリカの原爆投下の「正当化論は破綻しているという見方である。

Aの安倍首相の「戦後レジームからの脱却論」の検討である。この点に関しては、最近出版された著書で、豊下楢彦氏は、次のように述べている。(「集団的自衛権と安全保障」2014年刊行・岩波新書)
「このスローガンには、実は二つの含意がる。第1に、「押し付け憲法」からの脱却であり、言うまでもなく、その核心は憲法9条にある。
第2に挙げられるのが、「東京裁判史観」からの脱却なのである。要するに、東京裁判で示された、日本の戦争を全て「悪」として否定する歴史観であり、安倍はこの史観によって、戦後の日本が支配され、マインド・コントロールされてきたと厳しく批判する。
 安倍がかねてより主張してきた、「村山談話」や、「河野談話」を見直し、「侵略の定義」を後世の歴史家に委託、さらには靖国神社への参拝などが、ことごとく「東京裁判史観」からの脱却という課題への具体化なのである。」(この著書では、豊下氏は安倍の「集団的自衛権」の必要性を虚構の論理であるとして、徹底的に検証し、批判している)

以上のように、「東京裁判」などの歴史的な見直しを一歩進めて、現在の安倍政権(代打の菅政権)の「登場」により、戦後史の歴史的な問題点は現在フタタに脚光を浴びているという政治的な現在へと転回してきている。
 かつて、EHカーが言ったように、「歴史とは過去と現在との絶えることのない対話である」という視点が見直されねばならないと思える。すべての歴史は現代史でもあるという見方ではないだろうか。コロナウィルスの脅威はこのことを現在の人類に突き付けているとも思えてならない。(近代史家の保坂正康氏は「近著「近現代史からの警告」で現在は「コロナとの闘い」であると指摘するが同感である。)
以上。