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0897 官邸のヒムラ―;杉田和博官房副長官「公安を使った監視と圧力」! 流水 2020/10/19 09:29:16
🔶杉田和博という存在

今回の学術会議人事拒否問題は、公安、内調など警察・諜報関係に依拠した安倍・菅政権の統治体制の根幹をあぶりだしている。

杉田和博氏は、東大卒。警察庁出身(公安関係)。内閣情報局長などを歴任。
内閣官房副長官、内閣人事局長(幹部官僚人事を統括)
※杉田和博 ウィキペディア 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E5%92%8C%E5%8D%9A

以前、安倍内閣の人事のポイントは、首相官邸に公安や内調などの諜報機関の出身者が4人いると書いた事があるが、杉田和博氏はその中心。
文科次官だった前川氏の証言によれば、政府審議会のメンバー選定で政権に批判的な専門家を外せと言われたことがあるそうだ。

実はこの話、あまり表面には出てこないが、中央省庁だけでなく、地方官庁の人事などでもかなり日常的に行われている。例えば教職員の人事でも、20代にたった一度だけストに参加した事のある教師は、その経歴が教師を辞職するまでついて回る。そして,昇進人事や、異動人事ではたいてい不利益を被るようになっている。人事担当者は、決してその人間の思想信条を裁いているのではなく、日ごろの実績で評価していると言う。
それでいて、傍から見ている人間には、その人事がその人間の【思想信条】にある事が、理解できるようにしている。

こういう事例を見ている人間は、決して上司に逆らおうとはしない。首をすくめて、唯々諾々に上司に従う。これが、官庁の秩序というものである。

役所では人事が全て。人事を握ると言う事は、その人間の生殺与奪の権を握ると言う事を意味する。役人が忖度するのも無理はない。というより、【忖度】をするから、役人だと言っても良い。

それに加えて、杉田氏は、警察庁では一貫して【公安】畑を歩み、内閣情報局長などを歴任している。つまり、【情報収集】のプロ。

前川喜平氏の証言によれば、前川氏が出会い系バーに出かけた事(前川氏の調査研究対象)をメディアに出る半年前に杉田氏から言われたそうだ。
こういう情報を握って、人を支配するやり口は、公安の常套手段。
これは、通常の人事担当者より、はるかに怖しい。一体全体どこまで私の事を知っているのだろうか、という恐怖心を抱かせる。

一説によれば、議会から三権のすべてと言論界、経済界にまでも、その内偵は行われている可能性が高い、というのである。個人情報など完全無視。
羽鳥のモーニングショーで、羽鳥が玉川に「お互いにハニートラップに気をつけましょう」と語っていたが、TVに出ているMCやコメンテーターなどは間違いなくその対象だろう。

だから、役人たちにとって、杉田氏の存在は想像もできないほど怖しい存在だ、と考えてさほど間違いはない。

逆に言えば、首相官邸にとって、これほど重宝な人材はいない。一つ間違えれば面倒な各省庁のエリート官僚を有無を言わさず従わせる力と存在感を持っている。

こんな人間はそんなにはいない。簡単には代わりが見つからない。杉田氏が79歳になってもいまだ現役である理由だろう。

もう一つ付け加えるなら、杉田氏は、日本においてヒトラーの手口を意図的に具体的に実践してきた第一人者ではないのか、という疑いを禁じえない。

※ヒムラ― ナチスの指導者
1929年ナチスの親衛隊長になって以来,ヒトラーの腹心となり,秘密警察部門を担当。1934年秘密国家警察(ゲシュタポ)長官となり,第二次世界大戦中はユダヤ人虐殺や反対派抑圧の責任者として恐れられた。戦争末期にイギリス軍に逮捕されて自殺。
旺文社世界史事典 三訂版の解説:
http://kotobank.jp/word/%E3%83%92%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%BC-120846

🔶 江戸の杉田和博 水野為長と【よしの冊子】

歴史的に見れば、日本にも、杉田氏に酷似した人物がいた。

【寛政の改革】で有名な江戸幕府の老中松平定信の側近中の側近に水野為長という人物がいる。
彼が定信を助けるために、役人たちの情報が記載された閻魔帳を作成した。これを【よしの冊子】という。
※よしの冊子を基にした本はこちらで見られる 
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8E%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%AE%E5%86%8A%E5%AD%90%E3%80%8F%E3%81%AB%E3%81%BF%E3%82%8B%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%BD%B9%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%A9%95%E5%88%A4-%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E8%A9%95%E4%BE%A1-%E6%96%B0%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B1%B1%E6%9C%AC-%E5%8D%9A%E6%96%87/dp/4046010363
為長は、お庭番などの密偵を使って、幕府役人や学者、医者などの行状や評判を採集。それだけでなく、諸大名や外国関係の風聞、朝廷の情報なども収集。
それを「よしの冊子」にまとめている。書かれている人数は1万人程度と言われている。

【よしの】というのは、「何々の由」の「よし(由)」から取っている。簡単に言えば、そういう噂(話)でございます、程度の意味である。
この冊子に掲載されている有名人をあげれば、「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵なども記載されている。

※現代語訳 よしの冊子 http://chuukyuu.info/who/edo/2009/08/post-e5f4.html

実は「よしの冊子」を紹介したのには理由がある。松平定信というと、【寛政の改革】がすぐ出てくるが、わたしがその中で注目しているのが、【寛政異学の禁】である。

※寛政異学の禁⇒寛政異学の禁とは、寛政の改革のなかで行われた学問統制のこと。幕府が運営する聖堂学問所(昌平坂学問所)においては、朱子学だけを正しい学問として教えることとした。その他の学派は「異学」と位置づけ、教えることを禁じた。

※朱子学⇒明の朱熹が始めた学問。壮大な理論体系を持つ。特に、【上下の身分をはっきり区別することが重要である】と主張しているため、日本では徳川幕府によって奨励された。

しかし、江戸中期以降、朱子学の人気が衰える。理由は単純明快で、あまり「理」を強調しすぎのため、平和の世の中で面倒くさがられた。⇒そのため、古学(伊藤仁斎)などの新たな儒学が学ばれ始めた。

ばりばりの朱子学者だった松平定信は、朱子学の復興を考え、公認儒学スクールである湯島の聖堂学問所(湯島聖堂)においては、朱子学以外の学問を教えることを禁じたのである。

◆よしの冊子と寛政異学の禁(思想統制)と現在の思想統制の類似性

ここで注目しなければならないのは、【思想統制】と【役人・学者などの情報収集】は表裏一体のものだ、と言う事である。これには時代の差はない。

江戸時代に行われた「情報収集」に基づいた思想統制と、令和の世で行われている「学問の自由」に対する思想統制が、相似形であると言う点に、菅政権や杉田副官房長を始めとする現在の政権体質の古さを見る。

菅政権の連中は、江戸時代と現代の区別もつかないほど劣化しているのだろうか。

自由主義とか民主主義の思想的価値は、他者の『自由』を尊重するところにその神髄はある。
他者の『自由』を尊重するから、多様な学問や研究、文化的活動の豊かさが生まれ、人間の創造力が解放され、多種多様な科学的発見や豊かな芸術文化が花開く。
その意味からすると、近代とは、【自由】そのものだと言って良い。他者の【自由】を尊重する事により、近代を近代たらしめる科学的発見や文化的芸術的発展がもたらされた。

「寛政の改革」も、朱子学以外は学問として認めないような硬直した学問観や思想が、時代の趨勢に合わず、見事に失敗する。定信の改革は、かなり急進的であり、同時に正義を標榜する政治家にありがちなかなり厳しい取り締まりを強行し、人心を離反させる傾向があった。

前の田沼時代は、重商主義的政策に重点を置いていた。実は、田沼の政策は、時代の流れから言えば、必然の政策だった。
しかし、好事魔多し。宝暦・明和期は、大旱魃や洪水など天災が多発。
江戸では、明和の大火があった。死者1万4千700人。行方不明者4千人を超えた。元号を安永に変えたが、その後も天変地変は止まず、天災・疫病、三原山・桜島・浅間山の大噴火、そして天明の大飢饉が起こった。
当然、全国的に、一揆や打ちこわしが頻発。当然、田沼政権は厳罰で臨んだが、なかなかうまくいかなかった。

このように、田沼時代は、家康以来の幕府の重農主義政策に重点を置いた幕藩体制の矛盾が天災を契機に噴出しつつあった。田沼の苦闘は、幕藩体制が曲がり角に来ていた事を象徴している。

これまでの定説(田沼時代と寛政の改革は全く違う)とは異なり、「寛政の改革」も田沼時代の政策をそのまま継続している部分も多かった。重農主義から重商主義政策への転換は、時代の流れであり、如何に定信といえども、重商主義的政策を完全に否定する事は出来なかった。

同時に「寛政の改革」は、飢饉や洪水、火山の噴火、大火事などの天災・人災で苦しむ民衆の救済を狙ういわゆる「社会福祉的」政策も行われている。
※囲い米。棄捐令(借金棒引き)。佃島人足寄せ場。(長谷川平蔵が主体的にかかわる)
この政策は、秩序回復や農民や都市窮民の不満を鎮静化させるためには不可避の政策であり、評価されるべきだろう。

こう見てくると、松平定信の改革の失敗は、一つは、現実的には重農主義的政策から重商主義政策に転換せざるを得ないのに、理念的には重農主義の固執せざるを得ない矛盾を抱え込まざるを得ない点にあった。

もう一つは、「白河の清きに魚は住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と落首に読まれたように、あまりの性急さと理念的潔癖さに人心が倦んだ点にあったと思われる。

翻って考えると、現在、政府や自民党、ネトウヨ丸出しの政権応援団連中の言説は、旧態依然とした「軍事優先」の言説であり、時代の趨勢からあまりにもかけ離れている。
学術会議の「軍事研究」をしないという姿勢に対する反発や学術会議が中国の研究を助けているとかというフェイクニュースを声高に主張している。

日本の置かれている経済状況の深刻さや学術会議発足の歴史的経緯に無知で、単なるいちゃもんに過ぎない彼らの言説のレベルの低さは救いようがない。
フジTVの上級解説員の肩書を持つ平井某のように、学術会議に選ばれた学者は、学士院会員になり、年金250万円もらうなどというデマ(全く根拠なし)を垂れ流しておいて、謝罪もせず、TVから姿を隠して、人の噂も七十五日で忘れ去られるのを待つ卑怯な姿を見れば、彼らに何の理念もないことは明らかである。

たしかに水野為長は定信に「よしの冊子」を提示し、寛政の改革推進の手助けをした。しかし、それは排除の論理だけでなく、「寛政の改革」や「寛政異学の禁」を推進するための有能な人材発掘の側面もあった。敵対する人物や無能な人物。非道徳的人間などを排除するためにだけ使われたものではなかった。
その意味で、「よしの冊子」は、松平定信の【寛政の改革】推進の大きな助けになっていたのである。

しかし、菅政権の杉田和博氏の場合は、排除の側面が強すぎる。人事権が人に与える影響を知り抜いたうえで、支配の道具として人事権を利用しているとしか思えない。
松平定信ほどの理念も学識もなく、ただ【人事権】を行使して、人に恐怖心を与え、他者を支配下に置く快感に酔っているとしか思えない愚挙である。

水野為長や松平定信が活躍したのが、18世紀末。200年以上後の権力者たちの振る舞いが、彼らより劣るというのは、歴史の皮肉と言うしかない。