呼出完了
0887 旧満州からの壮絶な引揚げ体験 名無しの探偵 2020/08/20 22:25:44
表題にあるように満州からの引揚げ体験を持つ村上敏明さん、86歳と本年の2月頃にフェイスブックで知り合いになった。村上さんの体験は最近では産経新聞で、ビデオでは(ユーチューブで鑑賞できる)伊藤詩織さんが、数年前には朝日新聞で紹介されている。ところが、私はご本人である、村上さんにお会いして、体験談の小冊子をもらったので、この冊子を基に、村上さんの引揚げ体験のことなどを書いていきたい。
ただ、村上さんの体験談には少し不可解な箇所(これは実は重大な意味があり、不可解に感じられるということで、後記する)
2、冊子とはいえ、かなりな分量があり、後期にある「年票」が分かりやすいので、それを引用する。
「1946年、5月末、中国正規軍、四平支配。
(村上さん、一家は軍隊に召集された父親を除き一家5人で暮らしていた場所が四平である)
〇この年の上旬、母と弟二人、他に数人の大人に囲まれて、母が抱く妹芙美子に僕は毒入りの水を小さな口に入れた。妹は目を開き僕を見てそのまま息を止めた。(引き上げの窓口になった日本人会が、この子は殺しなさいという指示をしたのか、そのことにも母も11歳だった僕にも抗えなかった。)
〇7月上旬から8月7日  母は治療のためコロ島近くの病院に収容された。その数日後の8月6日、いつも飲ませていいる薬と違う白い粉薬が私に手渡され、口に流し込んだ。すぐ泡を吹いて母は息を引き取った。母は34歳だった。
〇1948年夏父帰国」
これが村上敏明さんの壮絶な旧満州からの引き上げ体験の概略である。
3、村上さんは、以上の「引き上げ体験」は日本政府による「棄民政策」の帰結であると語るが、その証拠となる文章を村上さんは次のように書いてい
る。
『(外地にいる)居留民はできる限り定着の方針を執る』(中略)満州にいる僕らはとにかく満州に定着しなさい、もう日本人でなくなってもいいよ、という方針を出したわけです。
(中略)ところが、日本政府はさらに棄民政策を強くします。『満州朝鮮に土着する者は日本国籍を離れるも支障なきものとす』これは8月26日に大本営が出した文章です。

この冊子は村上さんの講演内容を記したものであり、講演会の「質疑応答」で私が「不可解な箇所がある」と言ったことの疑問を解く回答があり、長くなるが引用する。
「(村上さん)・・・、妹が死んだ時のショックと今までの疲れで歩けなくなって、結局、完全に治療もすることもなく、多分青酸カリを盛られて亡くなりました。僕は安楽死だと思っています。相談もなしに、医者が黙って違う薬を私に渡したことについては、医者としての倫理に欠ける。医者のモラルについて考えなければならないことだと思います。

4、以上の村上さんの講演を要約して書いた。最後に、私の感想などを述べよう。村上さんと知り合ってから大分経過して、本人と出会うことができた。村上さんは京都で(関西電力の支社の前で)「きんかん行動」(金曜の関電前での反原発運動)を長年されていて、出会いの日が遅れた事情があった。しかし、村上さんを前にして自分の話をしてしまい、村上さんに「聞き役」にしてしまったという反省がある。ところが、村上さんはかなり年下の私の話をいつも(FBなどで)聞いてくれる心優しき人なのである。
だが、以上の体験談は実は村上さんが話し出したのは、5年くらい前からであり、本人の弁では「母と妹を手にかけた」(殺害した)というトラウマを70年近くも沈黙の中に潜めて、悲哀と罪悪感とで封印せざるを得なかったのである。その心の内を思うと言葉を失う。
「私の闘いは1945年の敗戦後から始まった」という村上さんの「体験」は私にとって初めて聞く話であり、自分の無知に恥ずかしさを覚えたほどである。今、現代史を再検証しているが、村上さんとの「出会い」は自分の研究を中途で諦めてはならないという無言の使命を託されたのだと思っている。村上さん、今事とも𠮟咤激励お願いいたします。
以上。