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0772 憲法9条私論 流水 2018/08/27 16:33:49
わたしが日本国憲法9条の意味を考えるとき、必ず憲法の前文と併せて考えることにしている。当たり前の事で、日本国憲法前文にこの憲法がなぜ創られたのか、その意味は何かが、書かれている。

わたしが特に重要だと考えている前文。
・・「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」・・・

中でも、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という文章はきわめて重要だと思う。この文章と日本国憲法9条を重ね合わせて考えると、実はこの憲法の草案者たちは、思想的に非常に深いことを語っている、と思われる。

※日本国憲法第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
・・・・

これまで法律上の議論は厭と言うほど繰り返されてきた。人によっては、【神学論争】とまで呼ぶほどである。わたしは、法律上の論争とは別角度からこの問題を考えてみたい。

わたしは、前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という文言は、通常理解されているよりはるかに重い意味が隠されていると考えている。

戦争に負け、多くの犠牲者を出し、家を失い、飢えで苦しむ国民と、荒廃した山河を目の当たりにした草案者たちの胸裏に去来したものは何か。この文言からは、彼らの心の底から平和を願う震えるような覚悟が伝わってくる。

わたしはこの文言の意味を考えるとき、いつも思い出すのが、「日本沈没」の映画の一場面である。(小松左京 原作  森谷司郎監督)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B2%88%E6%B2%A1
https://www.youtube.com/watch?v=qvI1KBOwGQg

いよいよ、日本列島が沈没する事がはっきりした時、時の政府や山本総理は何を考え、どう行動しようとしたか。日本国民1億2千万の運命が彼らの双肩にかかっている。その責任の重さは、言葉では到底語りつくせない。

その時、山本総理は、信頼する京都の福原教授に救済プログラム作成を依頼する。福原教授の答えは、【最善の策は、何もしない事】というものだった。
もちろん、福原教授はそんなことができるはずもないことは百も承知で、そう答えた。

福原教授の真意は何か。

日本は、極東の島国でありながら、古い歴史を持ち、優れた科学技術を持ち、経済大国である。国民性はきわめて勤勉でおとなしく規律正しい。このような世界に冠たる国や国民が、海の藻屑に消えるのである。

国それ自体が海に沈むのだから、国民は、命を助かろうと思えば、他国へ移住する以外ない。日本国民全部が、文字通りの難民になるのである。

この難民を受け入れる他国も大変である。有無を言わさない「選別」が始まる。日本国民の中の富裕層と貧困層、若者と高齢者、技術者と非技術者、職人とその他、男と女、高学歴者と低学歴者などなどありとあらゆる選別が始まる。家族の中でもそれが始まる。

政府はあがく以外に方法がない。あがけばあがくほど問題は解決しない。そうこうしているうちに、日本沈没の「タイムリミット」が来る。まさに【蟻地獄】の日々が待っているのである。

福原教授が【何もしないのが最善策】と言ったのは、そういう生存のための「あがき」を止めようというのである。黙って海の藻屑になろうというのである。

極東に日本と言う島国があり、それなりに繁栄していたが、大地震と大噴火が列島を襲い、国もろとも海に沈んでしまった。その時、この島国の国民は、大声で他国に助けを求めるわけでもなく、他国に何の迷惑もかけず、黙って海の藻屑と消え去った。こんな国家や国民があるだろうか。見事な滅び方だった。世界中の人々が語り継ぎ、記憶に残るだろう。

福原教授の考えていたのは、東洋の「アトランティス」として、世界の【聖書的存在】として日本を残すことだった、と考えられる。

小松左京が「日本沈没」を出版したのが、1973年。学生運動も消沈気味で、バブル景気の到来までそんなに時間はなかった。彼は、そういう浮かれた日本国民の姿を苦々しく思っていたのだろう。日本人はどう滅んだら良いのか、を問う事により、日本人はどう生きたら良いのかを問うたのであろう。

わたしは、日本国憲法の前文の【平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。】の草案者たちは、日本沈没の福原教授の覚悟を持っていたと考えている。

憲法9条論議の要諦は、ただ一つ。【他国民の公正と信義】を本当に信頼できるのか、と言う点に尽きる。

改正論者は、【信頼できない】と考えている。だから、あれこれ難しい理屈をこねる。

草案者は、そんな形而下の問題は歯牙にもかけていない。攻められたら、戦わずに占領されればよい。しかし、決して降伏はしない。解放されるまで、【非暴力・不服従】の精神で粘り強く戦う。決して諦めない。

草案者は、それより、なにより、【武力を放棄し、戦争をしない国】を作ることが重要であり、そのためには、【平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持】するという【覚悟】が重要だという認識である。

この考え方は、「日本沈没」の処方箋を求められ、【最善の策は何もしない事】と答えた福原教授に相通じる。ありとあらゆる策を講じても、どうにもできない時は、じたばたしないで、成り行きに任せる。じたばたするだけ傷口が広がる。だから、黙って占領される。

この選択は、戦うより勇気がいる。戦前の日本陸軍のように、無茶な【万歳突撃】を決行。無駄に命を落とすより、はるかに勇気がいる。

草案者たちは、きわめて形而上的(哲学的)であり、こういう生き方を選択する以上、ありとあらゆる外交的努力をする覚悟を国民に求めている。当然である。

すすんで占領されたいと願う国民は誰もいない。と言う事は、そうならないための努力をするのは当然。「諸国民の公正と信義」に期待する以上、自らも他国に対し「公正と信義」に値する国際的姿勢と外交努力をしなければならない。武力に頼らず、自国の安全を確保しようと願うなら、他国に倍する外交努力を重ねる必要がある。

戦後日本政府や日本人は、【諸国民の公正と信義】を勝ち取れるような血の滲むような外交努力をしてきただろうか。

為政者や外交当事者、海外で活躍した多くの日本人は、広島・長崎の被爆体験を本当の意味で追体験し、真剣に勉強し、それを語ってきただろうか。

それだけではない。厭な過去に目をつぶっていては、本当の意味での新たな未来は訪れない。わたしたちは、加害者としての日本と言う視点で、どれだけ自国の過去に向き合ってきただろうか。

わたしたちは、自国の恥ずべき戦争の過去に本当に向き合ってきたのだろうか。厭な過去に目をつぶっていては、本当の意味での新たな未来は訪れない。

このような日本の過去に真正面から対峙し、自らの過去として逃げないで向き合う事でしか、憲法前文に込められた深い哲学的意味とそれを具現化した9条の真の精神を汲み取る事はできない。

護憲論者は、現実的でない、という批判がよく語られる。わたしは、憲法前文の精神と9条の精神を大切にした外交こそ、最も現実的な外交だと考えている。

世界中の人々の大半は、「戦争より平和」を願っている。本当の意味で戦争をしたいのは、死の商人と呼ばれる武器商人と国内政治の行き詰まりを戦争で解消したい政治指導者だけと言って良い。

だから、「平和」を希求する外交姿勢をぶれずに続ける事こそ、自国の安全に最も寄与する。なぜなら、それだけ「平和」を希求し、平和構築のために働こうとする国家を、戦争遂行に邪魔だと言う理由で攻撃する国家は、21世紀の世界では生きていけない。その程度には、世界にも、戦争の世紀だった20世紀の反省が生きている。

憲法9条改正派の論拠も分からないではないが、彼らには【現実】は変えられる、と言いたい。

安倍首相の外交姿勢が典型だが、彼には米国が作り上げた現実を変えようという意思はない。そうではなく、【現実を許容し、米国に積極的に加担する】という姿勢が顕著。

結局、日本の安全保障上の危機の本当の正体は、米国と中国、米国と北朝鮮、米国とロシアなど米国と世界の安全保障上の危機の「影絵」である。この危機は、日本の外交姿勢が招いた危機だと言う認識が必要だ。

彼らが言う現実とは、彼らの外交姿勢が招いた結果だという認識がなさすぎる。

現実は変えられる。日本の安全保障上の危機は、他国に信頼される本当の意味での【平和外交】を行う事により、必ず変えられる。この努力こそ、今最も必要な【外交姿勢】だと思う。