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0720 「排除」の思想はなぜ問題なのか 見習い期間 2017/10/09 09:14:13
日本における多文化共生・多文化理解が主張されるようになってから、10年近くが経過している。実際に、地域社会の中では日本にルーツを持つ者だけではなく、様々な国や地域の出身者が共に生活している状況である。
こうした状況下で、文化的背景が異なる人間同士が言語を用いて情報の伝達を行うために、試行錯誤が行われている。日本語教育学を中心とした研究成果では、日本語を母語としない人たちのうち、英語を使用して日本語母語話者とコミュニケーションを取ることを希望する者はそれほど多くないことが明らかになっている。自らの母語(これは必ずしも英語とは限らない)でコミュニケーションを取ること、あるいは日本語でコミュニケーションを取ることを希望する人の割合が多いのだ。日本語も、英語と同様に母語が異なる者同士をつなぐための媒介言語の役割を求められている。
過去には日本語母語話者が運用している日本語を規範的なものとみなし、非母語話者の使用する日本語の文法的な誤りや発音の不備を修正すべきであるという考え方が一般的であった。しかし、現在では母語話者の側が非母語話者に歩み寄り、様々な日本語の運用の在り方に対して寛容になることを目指そうと試みる動きも出てきている。「普通でない」「おかしい」と思ったときに、どうしてそのように感じるのかを言葉にして伝えるということ。そして、他の人の感じ方とどのように異なるのかを理解し、自分の価値観を場合によっては変容させるというプロセスも必要になるはずだ。
多様性を認め、様々なバックグラウンドを持つ人間同士がお互いに協力し合い生活しようと試みる実践的な動きがある反面、単一の文化しか認めず、郷に入れば郷に従えという姿勢を全く崩そうとしない人間も少なからず存在することも事実である。これは言語に関する問題だけではない。異なる民族だからというただそれだけの理由で何かを与えない、あるいは、同じ国籍を有するものであっても、考え方が合わないものは集団からただちに「排除」するなどと言い切ってしまう。トップに立つ人間が異質なものを「排除」するなどと堂々と公言するような組織に、果たして希望などあるのだろうか。
国民の代表として、この国の在り方や方向性を話し合って決めていく立場の人間であれば、むしろ率先して立場の違う人間の声に耳を傾ける必要があるだろう。自分たちが知らないことをなかったことにした上で「リセット」しようというのであれば、悪しき現状肯定にしかつながらない。