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0702 死にいたる病 流水 2017/06/04 22:51:15
「1」問題の所在

読まれた方もおられるでしょうが、「死に至る病」は、デンマークの哲学者キェルケゴールの著作です。第一部は、『死に至る病とは絶望である』と説き、第二部では、『絶望とは罪である』と説いています。

彼によれば、絶望とは、自己喪失であり、その喪失は、自己のみならず神との関係も喪失する事を意味します。この神との関係を喪失する事が罪であるというのです。

キェルケゴールは、ヘーゲルを頂点とした近代的理性主義を、キリスト教的視点から厳しく批判した事で知られています。

今、何故、キェルケゴールかと言いますと、ヘーゲルを中心とした近代的理性主義を理論的基盤とした「近代国家」という存在、理性主義を極限まで伸長した「新自由主義的資本主義理論」とその補完システムとしての「民主主義的政治形態とその価値観」が、限界を露呈し始めています。その意味で、近代的理性主義そのものを批判の対象にしたキェルケゴールが見直されているのです。

キェルケゴールが説く、「絶望とは自己喪失である。絶望とは罪である。何故なら、それは自己のみならず、神との関係においても喪失するからである」という議論は、何もキリスト教でなくても、世界の若者たちの絶望のありようを見ればよく理解できます。

たとえば、イスラム過激派に身を投じた若者たちが、『自爆テロ』というどう考えても理屈に合わない信念に殉じて、自らの命を捨てる姿を見ていると、彼らの『絶望の深さ』を感ぜざるを得ません。何故なら、イスラム教は人を傷つけたり、自殺する事などを厳しく戒めている宗教なのです。そのような宗教的価値観を無視してまで、『自爆テロ』という形でしか、自己喪失の現状(アイデンティティ)を回復できない若者を生み出す世界とは何だろうか、と考えざるを得ません。

人が【生きる】と言う事は、「自分の生」に何らかの生きる意味を見出しているからです。それが積極的な希望であるか、消極的な希望であるかは別として、人が【生きる】と言う事は、心の奥底に何らかの「希望の炎」を燃やしているのです。

俺は惰性で生きているとか、仕方がないから生きているとか、死ぬのが怖いから生きているとか、様々な消極的な理由を言って自らの生を否定的に語る人がいますが、そう言いながら、やはり人は何かしら心の奥底で【生きる理由】を見つけているのです。そうしなければ生きていけないのが人間の本質なのです。

「2」価値を生み出すとは何か

前の投稿で、珠さんが、「障害者の人権」を説いておられましたが、実はこの『人間の生きる意味』を否定する考え方が、近代的理性主義の裏に付着しているのです。

近代的理性主義には、『人間が生きる』とは、何らかの『価値』を生み出さなければならない、という強迫観念に近い、一種の進歩史観が付きまとっています。

そして、資本主義は、この最高の『価値』を『金儲け』に置きます。『金儲け』という価値観から全てを考えると、金儲けする事ができる何らかの『価値』を生み出す人間が、生きるに値するという事になります。それ以外の人間は、『無駄飯食らい』の『余計者』になり、人間として生きる価値を否定されます。資本の側の要求には、常にこの非人間的思想が付着しているのです。

現実の資本主義社会は、激烈な競争社会であり、近代的理性主義の重要な価値観である【民主主義・自由主義・公正・公平・平等など】の理念とはかけ離れたものでした。

そうなると当然ながら【自由・平等】などの理念には、その背面に【不自由・不平等】が当然のごとく貼りつく事になるのです。資本主義の原理は、『金が金を呼ぶ』という法則で動いています。【金儲け】に関係の無いものには見向きもしません。現在でも有能な企業戦士の行動原理は、この資本主義の原理原則に従っているはずです。

当然ですが、このような弱肉強食原理をそのまま放置すると、大多数の国民は疲弊し、絶滅・死滅の危機にさらされます。死にたくないと願うなら、大衆蜂起して内乱勃発になるか。いずれにしても、そうなってしまうと、通常の会社活動ができにくくなり、資本にとって会社存亡の危機になります。これは資本側だけでなく、国にとっても同様です。

ここで考え出されたのが、『富の再配分』という論理です。国家や資本側にとって再配分とは、『ほどこし』なのです。20世紀の修正資本主義は、この『ほどこし』の論理と技術の拡大を重要な使命にしていました。先進国と呼ばれる国家は、この『ほどこし』が進歩し、国民がその『ほどこし』に満足し、国政が安定している国を指しました。

徳川家康流に言うならば、「国民を生かさず、殺さず」絶妙なバランスで行われていたのが、『修正資本主義的国家』経営だったのです。

同時に、忘れてならないのは、その『ほどこし』をできる金を収奪したのが、アジア・アフリカ・南米などの経済後進国だったという事です。それらの国々にとっては、先進国とは自国の富を収奪する泥棒の輩を意味していたのです。

「3」国家とは何か

もう一つ、ここで頭に置いておかねばならないのは、「国家」とは何か、という問いです。

吉本隆明の著作に【共同幻想論】というものがあります。【共同幻想論】は、1969年に出版されたもので、戦後最高の思想家と呼ばれる吉本の代表作といって過言ではないと思います。当時大学生だったわたしも夢中で読んだものでした。

当時の国家論は、ルソーなどの社会契約説の影響を受けた「集団生活を成立させるために国家を作った」という論や「ブルジョワジ−が自らの既得権益を守るために作った暴力装置」というレーニンの国家論が主流でした。国家=ルール体系、機能的システムである、という論なのです。

それに対して吉本は、『国家とは人間が創り出した共同の幻想』だという説を主張したのです。人間は、自分たちの創り出したフィクションである「共同幻想」に、時に敬意を払い、時に親和を覚え、時に恐怖を覚えるのです。これが呪術的な原始的国家では顕著に見られるのです。

よくよく考えて見れば、すぐ分かるのですが、この【共同の幻想】と【個人の幻想=想像の世界、心的世界】は、重なり合う部分もありますが、しばしば対立もします。

現在でも、【愛国心】とか【ナショナリズム】という【共同の幻想】が個人の内面世界=【個人幻想】を侵食しようとしています。この【共同の幻想】と『個人の幻想=心的世界』が一致するとか、重なり合う幸せな人は、滅多にいないのです。

【共同幻想】と『個人幻想』が一致したり、重なり合う場合が一番多いのが、スポーツなどの勝ち負けを争う団体競技です。この時の幸せな感覚というものは、人間の記憶に長く残ります。甲子園の高校野球は、『共同幻想』と『個人幻想』が重なり合う最も代表的なスポーツです。勝って泣き、負けて泣く。純粋に感動できる瞬間です。ある意味でオリンピックもそうでしょう。

だから、政治は、スポーツを重視し、金も出し、政治利用もします。国が創出する『共同幻想』に『個人幻想』が一体化したり、同化してくれるのは、大歓迎です。

特に、ファッショ政権(愛国心を強調する政権)にとって、スポーツの政治利用は、政権維持【権力維持】そのものなのです。ヒトラーのベルリンオリンピックもそうでした。ナチスドイツを教師とする安倍晋三政権のオリンピックの政治利用は、政権維持の切り札なのです。

吉本のいう【自立の思想】とは、このような【共同の幻想】による内面の浸食を拒否できる【個人の幻想=個人の内面世界】の確立を指しているのです。これこそが、ラジカル(本質的)な現代的課題だと主張したのです。

吉本を一番読んでいた世代は、現在60代を超えている人が多いはずです。安倍政権の醸し出す【共同幻想』の危険性を最も分かっている世代なのです。だから、国家前の行動にも参加している高齢者が多いのだと思います。