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0700 横浜事件の歴史的な検証は不可欠。 名無しの探偵 2017/05/22 23:10:49
東京新聞でも最近になって共謀罪の危険性を検証するために事件の発端となった新潟県の泊にある旅館を共謀罪に反対する市民たちが訪れている。(2017年4月12日夕刊)
こういう検証のツアーは大いに結構なことであるが、共謀罪の国会審議が始まっていることもあり遅きに失した観は否めない。

さて、横浜事件の簡単なスケッチは必要なことなので触れておく。
横浜事件は、1942年、総合雑誌「改造」に掲載された細川嘉六の論文が、「共産主義的でソ連を賛美し、政府のアジア政策を批判するもの」などとして問題になり、「改造」は発売頒布禁止処分にされた。そして、9月14日に細川が新聞紙法違反の容疑で逮捕された。

捜査中に、細川と「改造」や「中央公論」の編集者などが同席した集合写真(事件捜査の発端となった写真である)が富山県泊町の旅館で見つかり、日本共産党再結成の謀議を行っていたとされた(「泊事件」)。実際は細川が、1942年7月5日、出版記念で宴会を開催した際に写真にすぎなかった。

 1943年に改造社と中央公論社をはじめ、朝日新聞社、岩波書店、満鉄調査部などの関係者約60人が次々に治安維持法違反容疑で逮捕され、神奈川県警の特高は被疑者を革や竹刀で殴打し失神するとバケツの水をかけるなど激しい拷問をおこない、4人が獄死している。横浜事件とよばれるようになったのは警察の管轄からである。(しかし、この名称は私は不適切と思う。なぜなら横浜という地域限定の事件ではなく上記のような有名新聞や出版社、今でも大きい、を狙った一網打尽の共謀をでっち上げて拷問し、事件に仕立て上げたからである。「横浜事件」という名称は権力の思う壺の名称なのである。)

このスケッチはウィキペディアを基にして書いているが、そこには「真相については現在でも不明な部分が多く、言論弾圧的な側面だけでなく、反東条の有力な政治家近衛文麿の失脚を期したもの」という推測も可能であるとしているがこれも問題が多い。

なぜなら、事件の容疑者にされ拷問も受けた木村亨さんとの質疑応答の際に、私が「この事件では先ほど木村さんが敗戦後にGHQの追求を恐れて裁判所(東京地裁)の職員たちが裏庭で事件の証拠書類を焼却していたと言われておりましたが、それなら現在の再審裁判で裁判所が証拠も散逸しているので真相究明は困難だというのは不当な申し開きではないですか」と質問したところ、木村さんは「あなたの言うとおりです。自分たちで証拠を処分しておいて真相究明ができないというのです。」と答えておられた。そのときのことは今でも忘れることはできない。
木村さんは拷問を受けた(竹刀で殴られたりした)が、自分は柔道をやっていたので拷問に耐えることができたと言っておられた。

「横浜事件」(私が歴史的に検証した名称ならば、「軍事政権下における最大の言論弾圧事件」と言う。)
この再審裁判では無罪に近い(免訴という馬鹿げた判決)裁判が下ったがこの事件を歴史的にきちんと問い続ける作業は不可欠であろう。

なお、私が随分以前に入手した「横浜事件資料集」には容疑者にされた人の中に女性がおられ、この方の手記によれば「裸にされて紐でつるされるという拷問を受けた」と書かれていた。
これがどの本にも書かれていない事実であるが、特高は何をするか分からない警察組織だったと言える。

「横浜事件」の教訓として「正気を失った権力」は政府にとって都合の悪いメディアや言論に対して「単なる出版記念会の宴会」までもその宴会の写真を「共謀」があった証拠としてでっち上げ、「事件化するのだ」ということを肝に銘じる必要が大であるということなのである。
以上。