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0650 心身の教養を取り戻すために 見習い期間 2016/07/18 07:57:32
今日、コラムを書くにあたり、先週の今日は参議院議員選挙、月末には東京都知事選挙を控えているという状況だから選挙について言及した方がいいのかと悩んだ。しかし、こういう時分だからこそ、私たちが生きやすい社会を作るために何をする必要があるかを考えてみることも必要ではないかと考え、このようなタイトルで文章を書くことにした。
 先週末、選挙の投票所に行った際に、その場で候補者の写真を見てだれに投票するのか決めている人を複数見かけた。選挙明けの月曜日には、「周囲の大人が「選挙に行け」とうるさいから」「後で「なんで選挙に行かないんだ」と聞かれるのが嫌だから」という理由で渋々選挙に行って投票したと電車内で話す大学生の集団を見た。彼らはみな、立候補者の打ち出す政策などには全く関心がないようで、むしろ投票に行ってやってるだけ偉いだろうといわんばかりの言動が目立った。
現在の日本は間接民主主義であるがために、一人ひとりが社会を作っているという意識を持ちづらい。しかし、誰かが自分のために社会を作ってくれているわけではなく、他でもない自分の行動が日々社会を作り続けているということを考えなければならない。現状でも、面倒なことは人任せにしたいというスタンスの人は世代を問わず存在し、できることならば自分はいいところだけ享受したいと考える人もどこに行っても見かけるものだ。だけど、自分の心身のコンディションを整えるのも、自分の身の回りの環境、しいては自分が生きる社会を整備するのも、まずは他ならぬ自分の役割であり、自分一人ではできないことはできる人に助けてもらうというのが共同体の根本的なあり方ではないだろうか。
現代の日本社会において、すでに声をあげづらい状況の人もいることは明らかだ。それでも、その人ができる範囲のことをすることは誰もが安心して生きられる社会を作るためには必要なのだ。まずは自分の心身の健康を心がける。身近な他者への配慮を忘れない。いずれもできる範囲で構わないので日々実践する。そして、他者の意見に耳を傾け、自らの意見もわかりやすく伝える。こうした当たり前のことを個人が積み重ねていくことが、安心できる社会づくりへの一歩となるだろう。毎日のように「大人」と言われる人物の振る舞いを見ているが、こうした行動ができない人間が自分を含めて多いように見受けられる。自分は生かされていると同時に生きていることを決して忘れてはいけない。政治の問題にしても政治家がすべてを解決してくれるわけではなく、選挙で議員を選んだら終わりというわけではない。代表として議会にでてもらう議員たちが何をするのかをチェックし、普段から対話を通じて関係を構築しなければいけないのだ。
このコラムに書いたことは概略であり、現代における「教養」(市民として生きるための智恵)はこれであるというように一言で定義できるようなものではない。議員選出の選挙だけでなく憲法改正の国民投票をも現実的に行われうる現状では、わたしたちひとりひとりが「市民」として主体的に行動し、判断・決断を行うためのリテラシーを養うことが必要とされているのではないだろうか。