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0636 社会権の歴史 名無しの探偵 2016/05/07 16:40:22
日本の生存権(法律レベルでは「生活保護」)の戦後の歴史と現在を見ると生存権(憲法上では「社会権」の中核となる人権)は戦後初めて法制化されたような印象がある。そして、実際の厚労省による法運用の実態を見ると生活保護を受給できることはかなり狭き門であるという印象が強い。
 また、旧厚生省の時代に生活保護の制度は「本当に困っている人を救済する」制度です、というキャッチコピーが流布されていた。
 だが、上記のような日本社会の「常識」は全くの
虚構の常識なのであり、政府による宣伝に近い。
生存権とか社会権と言われるものはすでに17世紀
前後から存在した。最初の法的な制度は1601年の「エリザベス救貧法」と言われるものである。
救貧法というので貧困者の救済が法制化の理由であると思われるが、実際にはイギリスの政治的な安定
が重要だったと言われている。この法律の内容として労働意欲のない浮浪者の取り締まりが主な狙いであり、労働意欲のある者は「ワークハウス」に入れて救済したが、ない者には懲罰として「矯正院」に収容したのである。現在の「職業訓練」に近い制度だったのである。

このエリザベス救貧法では貧困者を救済できない時代になると、つまり、資本主義が発達してイギリスの経済成長の時代になると資本家階級が富を蓄積して多くの労働者を雇用したが、不況になると失業者が都市に溢れてくる時代である。

この時代には1782年に制定されたギルバート法
は、労働能力のある貧困者に対して収容主義を廃止し、院外救済(在宅での救済)の道を開いた。
 その後、フランス革命(1789年)の影響から穀物が値上がりしたので賃金では食糧を購入できない労働者世帯に南イングランドのスピーナムランド
ではパンの価格の上昇と家族数に応じて、救貧税から賃金を補助する仕組みがスタートした。(スピーナムランド制)
 日本と違ってイギリスでは、いまでも貧困な稼働世帯が公的扶助制度の対象になっているが、その淵源はこのスピーナムランド制にあるのではないかと
言われている。

こうした院外救済の制度が実施されたイギリスであったが、1830年代になるとイギリスの本格的な産業革命がスタートしてくる。「世界の工場」とか呼ばれた時代の到来である。
ところが、この富の蓄積と裏腹に「貧困の蓄積」も同時進行した時代に「新救貧法」という悪名高い法制度(救貧法改正法、1834年)が登場するのである。
 この法律は、貧困の原因を「個人の道徳的な堕落」に求めたことと、救済の対象を高齢者や障害者・病人などの「働けない貧困層」に限定したことである。
この法律の特徴はマルサスの「人口論」やベンサムの功利主義などの世界観を反映したものと言われている。
 マルサスは旧救貧法であるスピーナムランド制を攻撃して食糧危機の原因であると反対したからである。
 現在の日本の福祉行政で言われている「自立支援対策」は、貧困の原因を「資本主義による不可避の現象」に求めず「貧困者自身の自己責任」に求めている点でマルサスの主張と同じではないのかと言われている。歴史は意図的に繰り返されているのである。
 以上のようなギルバート法、スピーナムランド法の批判には資本家階級の資本への投下を妨げる救貧税の重荷はなんとかならないかという利益の主張が隠されているのである。
 こうして、新救貧法の制定の結果、1、院外救済の廃止と収容主義の復活 2、救済に値する貧困者と救済に値しない貧困者の選別、3、「バスティーユ監獄」にも擬せられた貧民収容所の惨状、
これらをもたらすことになったのである。
 救貧法は今や真に困窮している者ですら二の足を踏む者に変質したのである。これは現代日本の生活保護行政とも一脈通じるものがあるのではないか。
曰く、「真に困っている人を救済する制度」です。
新救貧法がいかに多くの貧困者を苦しめたかは、かのチャールズ・ディケンズの小説が雄弁に物語るところである。
 また、20世紀の喜劇王チャップリンは母親が精神を病み、6歳のときに「ランベス救貧院」に収容された経験を持つ(チャップリン自伝)。

以上、社会権の歴史は前半であるが、後半は次回に譲る。
「新救貧法」は新自由主義が猛威を振るったこの20年ほどの日本の歴史を再現しているような錯覚に陥る。実際、生活保護を棄却されて餓死したケースは思いのほか多かったのではないだろうか。