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0629 5年後の春に思う パンドラ 2016/03/07 11:35:17
2011年3月11日から5年の月日が経ちました。

あの日私はひとりで都心に出掛けていました。
銀座でランチをして、のんびり昼下がりの銀座を歩き、三越で買い物でもしょうと一階の雑貨売り場を
見て歩いていた時、グラリと足下が揺れました。

誰かの「地震だ!」という声が聞こえ途端にに辺りがざわつき始めました。
普通はそれで終わる筈が足下からグラグラと再び大きな揺れが起こり「地震ですね!地震ですね!」
と、私は恐怖と不安から意味もなく隣の見知らぬ人に声を掛けていました。

今考えてみると、三越銀座店は新築で耐震性も充分なされていたからあれほどの地震でも棚に飾ってあった小物一つ落ちていませんでした。でもあの時は冷静な判断など出来る筈もなく恐くて不安で、一刻も早く家に帰らなければと、そればかり考えていました。

何処で地震が起きたのか、どの程度の規模なのか古い携帯しか持っていなかった私は何の情報も得られず、まさかJRが全線不通になり、復旧の見込みも
立っていないとは知るよしもありませんでした。
グラグラ揺れる街中をやっとの思いでたどり着いた有楽町駅は
「この駅は耐震性がないので、出来るだけ駅周辺から離れて下さい」
という冷たいアナウンスが流れるだけで構内に入る
事も出来ませんでした。
そのまま東京駅に向かった私は足下がグラグラ揺れる中を1人で歩いていると膝がガクガク震えてて
「もう二度と1人で都心に出たりしません。どうか助けて下さい」
と目に見えぬ何かにすがる思いで心の中は一杯でした。

東京駅では、都バスだけは動いていて、都内でも私が住んでいる郊外の自宅により近い地域に、移動する事は出来ました。自宅にたどり着いたのは翌日の朝でしたが暖かいファミレスで食事もとれて一夜を過ごす事が出来ました。

あれから5年の月日が経ち、直後の恐怖は薄れたけれど、映画館、コンサート、劇場等には1人で足を
運ぶ事は出来なくなりました。
あんなに何処へでも1人で出掛ける事を楽しんでいた私が人が集まる場所には中々1人で出掛ける事が出来なくなってしまいました。

ただひたすら恐かった、よく知らない街でたった1人で足下からグラグラ揺れる恐怖と不安は二度と
思い出したくない記憶でした。
震源地から何百キロも離れている土地で地震に遭遇
した私でもそうなのだから、被災地の方々はどれ程
恐くて不安で、そしてその思いを今も心に留めていらっしゃるのだろうかと思うと心が痛みます。


更にあの日の原発事故により、故郷へ帰れぬ人達
が何十万人もいて、仮設住宅で暮らす人達は7万人にも及ぶ…。帰りたくても帰れない人達。
それなのに、東京に居て原発を推進したい人達は
あの地震を、原発事故をなかったものにしょうとしています。
次は福島ではなく、貴方が、私が住む土地かも知れないのに、何も解決していないのに、どうして前に
進む事など出来るでしょうか。

本当は私は今でも恐いのです。
私達の生活はグラグラ揺れる足下も覚束ない大地の上に立っているのではないかと思うと恐くて胸騒ぎ
さえ覚える時もあります。
その上、一度暴走したら人間の力では制御する事も出来ない原発を抱えているのです。
一部の人達はこの原発を飼い慣らせると、自分達の利益の為に推進しようとしています。。
地震は災害です。人智が及ばない時もありますが
原発は人が作ったもの、想定外などあってはならないし、そんなものは作ってはいけなかったのです。

人間には忘れなければ生きていけない事もあります
でも、決して忘れてはいけない人達が忘れるどころか「なかった事」にしようとしていて、多くの被災
した人達には忘れる事など出来なくて、解決することなき放射能汚染のただ中にいるのです。

だから私は原発を推進する事に反対します。
これから何年かけても、どんなに小さな力でも
声を上げて行こうと思います。
同じような意識を持った仲間の人達と共に。