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0627 私たちは「言論の自由」を守れるか 2016/02/22 22:13:18
2月9日の衆院予算委員会での、高市早苗総務相の放送法に関する発言は、最近の自民党議員の暴言や失言の中でも、今後のジャーナリズムのあり方に関わる大きな問題だ。

放送事業者が「政治的公平性」を欠く放送を繰り返して、「行政指導」でも改善されないと判断した場合、電波法76条に基づいて「電波停止」を命じる可能性があるというもの。

「権力者」である政府が、「政治的公平性」を振りかざして、公平かどうかを判断することができるものなのか? 政府に対する批判であれば、そしてそれが核心を突いたものであればあるほど、政府にとって「公平」ではないとされることだろう。

これは、「言論の自由」「国民の知る権利」と絡めて、放送界は一斉に論じるだろう…と私は思ったのだが、さっとニュースでは流れたものの、一向にそれに真正面から取り組んだ番組が、次々放映された様子がない。

これ以前に、籾井勝人NHK会長が、「政府が右と言うものをNHKが左と言うわけにはいかない」と発言しており、しかもそのまま会長を続けている。

そして、TV朝日の「報道ステーション」の古館伊知郎氏、NHKの「クローズアップ現代」の国谷裕子氏、TBSの「NEWS23」の岸井成格氏が番組から降板するというニュースが流れている。

これらの番組では、政府や官僚機構に対しても、その政策や施行の問題を掘り下げ、率直に論じてきた。権力に対して恐れずにモノを言ってきた。「権力の見張り役」としてのジャーナリズムの役割を果たしていると思う。そういう番組が変質させられようとしているのではないか?

インターネットが発達して、誰もが発信できるようになり、また重要な情報も得られるようになったから、マスコミは不要という話すら出てきた昨今だ。しかし、インターネットの情報はまさに玉石混交で、それを判断するための情報と知識が必要になる。

それには、私たち個人は知り得ない事柄について、できるだけ事実に近い情報を得る必要があり、ジャーナリズムに求められる第1の要素は、そうした情報提供だろう。

次に求められるのは、それらに詳しい人が、どう考えているかという論評だ。そこには当然、片寄りがある。

片寄りがあっていいのだ。多くの論評に耳を傾け、目を通すことで、幅広い物事の見方・考え方に触れることができる。それらは自分の判断の一助になるのだから。

しかし、その「片寄り方が、政府に批判的であった場合、政府は『公平でない』と見做して、権力を行使しますよ」という脅しが高市発言だ。

日本が民主的国家で、言論の自由が保障され続けるためには、こうした脅しに屈しない姿勢を貫くことだ。

それなのに、放送業界が大々的な反論をしないのは、この脅しが効いているのだろうか。それとも、政治的な討論や番組は、国民は見もしないだろうから、娯楽番組さえ与えておけばいいと思っているのだろうか? 

ニュースは政府発表や、犯罪や街角の出来事、遠い国のことで埋め尽くし、政治番組も娯楽化して、安倍政権にすり寄っておくほうが安全という判断なのか。

放送界は、すでに「言論」の劣化が始まっているとしか思えない。そしてこれは、日本が民主主義から遠ざかっていく道ではないだろうか。

次の選挙、国民がどこまで「物事を考えられるか」が試されることになるのだろう。

内田樹氏が、ドイツ人ジャーナリストの記をブログで紹介している。読むと、現政府と官僚の考える「公平性」が、どういうものかがよく分かる。http://blog.tatsuru.com/2015/04/10_1343.php