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0625 名もなき民の臨終とその前後 感謝を込めて 蔵龍隠士 2016/02/02 11:32:59
 1月30日、午後6時55分、やすらかに、母は臨終しました。昨年11月迄は、病院食をいただけていました。唯、好き嫌いがあり、また、多分、健康にも自信があり、嫌いなものは、手を出さず、食が細くなっても、それをやめませんでした。そう、その前から、車椅子にも乗り移れない位の体調・体力にもなっていました…。耳も遠く…。イライラトラブる”もあった。
 12月になると、病院食も箸が進まず、やがて、飲み下すことも困難になってしまい。さらに、彼女には、突然、何かを告げることも出来ない、ようになって。
 最初は、点滴でしたが、栄養補給が足りません。胃瘻設営(イロウ)とか、中心静脈注射とか検討する段になりました。検査の段階で、胃瘻設営の障害となる、胆のうによる栄養吸収阻害が発見され、一旦、胃瘻は見送りとなりました。中心静脈注射も実施しようとしましたが、静脈自体が細くなりすぎていて、できませんでした。それで、つなぎに、大量皮下点滴をしました。また、胆のう(乳成分等への吸収障害あり)摘除〈できれば、ベスト〉は、年齢的に???困難で、服薬で対応しようとなりました。胃瘻しても、胃・小腸以下で、栄養吸収が出来なければ、本来の目的は、達せられません。
 後日、再度、胃瘻設営を実施し、経管栄養をし、好転を待ちましたが、3日後、戻してしまい、病状が深刻になってしまいました。1月29日から数度、病院より容態悪化が告げられるようになり、最後まで、看取りました。酸素吸入をし、安らかに旅立ちました。もっとも、呼吸も低下し、顎で息をつぐ、そういう有様ではありましたが。機械を見て、どうなのかと思っていましたので、『機械(脈や抹消酸素計)が動いているから未だ、生きている』そんな心境になっておりました。だから、看護師から「お亡くなりになりました」と告げられても、納得できなかった…
 そして、勿論、医者が死亡を確認して、臨終を告げてくれました。それからは、時間に追われるように、病院を後にし、自宅にいったん連れ帰り(私の強い希望)、葬儀社とも相談し、葬儀社での通夜・葬儀が決まっていきました。2月1日、葬儀場から戻ると、…
 やはり、個人的経験に過ぎないけど、終活では、食事・栄養補給と歩くことは、欠かすべきではない、と思います。いくら、体力に自負があっても。未だ、大丈夫だと思っていても。その心意気は、大事ですけど。乱暴ではいけません。
 通夜の晩、一人で、あれこれ考える時間が持てたのですが、課題が、あれこれ、あれこれ、浮いて来ました。手続きもあれこれ待っているし。
 ただ、幸いなことに、ついには、母への、父への思いにたどり着きました。最愛の、というより、最高の、最良の、最善の父母への思い、感謝です。…生前、母に、これだけは棺の中に入れてくれと言われていた、私と父母の京都在学前と中でのやり取りした手紙の束です。恥かし乍ら、多くは、近況報告と金の無心でした。これを前にして、…最期に当たり、母と父への感謝の思いを裏紙に、書きなぐり、一緒に棺に納めました。
 余り、参考にはならないかもしれませんが、名もなき民の一時の、最期の有様を、残してみました。