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0614 Re: 護憲コラム 名無しの探偵 2015/11/10 19:23:04
「護憲」と「改憲」と

従来から、特に憲法学者の間で護憲派と改憲派などという派閥あるいは通念が形成されて大分経過する。私も一応護憲派ということにしてきたが、安倍政権の登場時点からこの区別はあまりに百害あって一利なし、という思考が脳裏に浮かんできた。
 その考えが徐々に確信に変わったのは小林節氏の講演と行動からであった。小林氏は「私は改憲派ということであるが、憲法といえども制定当時の状況から大分経過していること、憲法制定時にはいろいろと制約や間違いが存在していることもありうるのであり、また憲法で改正を規定しているのであるから改憲することも重要な問題ではないか」という趣旨のことを語っていた。
他の憲法学者は小林節さんと同様になんとか憲法自体を破壊するか全く別のものに変えてしまう安倍自民党の暴走を止めるべく行動や運動をしていることも理解している。しかし、小林氏のように情熱を傾けて安倍政権と対峙し、なんとかしようと毎回議場や講演会で行動している人はそう多くはない。文学論を東大で講義している小森陽一氏くらいがいるくらいである。
 護憲派か、改憲派かという区別はもはや意味をなさなくなっているのではないだろうか。

小林先生曰く「私は護憲派からは嫌われ、改憲派からは護憲派に属していると言われてきた。また、自分でも護憲的改憲派であると思う」と。
この憲法学者たちはバカバカしいレッテル貼りをしているのでないか。なぜなら、護憲派にしろ改憲派にしろ、今の憲法を全く違ったものにしてしまう改悪論者の跳梁跋扈(これが自民党憲法草案の実態である)を歓迎するはずはないからである。
 憲法論の論点として、「憲法改正はどこまで可能か」という(学者のアホらしい作文のような論点、問題であるが)ものが存在する。興味がある方は憲法の標準的な教科書に当たってみてください。
 その問題に対する学者の見解として制限説と無制限説が対立している。これが護憲派と改憲派を分けるリトマス試験紙になっているのかもしれない。
 しかし、憲法学者が言っていないことであるが、無制限説のように憲法の改正はどこまでも自由で無制限であるとすると、安倍自民党のように全く別物に変えてしまって果たして「憲法典の同一性」はなくなるが、それが「憲法の改正と言えるのか」という問題が発生してしまう。

憲法自体は同一性を保持しているから憲法改正なのであって、同一性もへったくれもないような安倍政権の「憲法」が成立する場合でも、なお無制限説は「憲法改正」が目出度く成立しました、おめでとうございますと言えるのだろうか。

 ただし、上記の憲法問題に関して補足しておくべきなのが現憲法成立時の歴史と改正経過であろう。
現憲法は周知のように大日本帝国憲法(略して旧憲法)の改正手続きを経て制定されたという歴史が存在する。
 しかしながら、現憲法の内容は旧憲法とは全く異なる別物であり、一番の相違点は旧憲法が欽定憲法であり、主権は天皇;君主にあったが、現憲法は国民主権である。これが同じ憲法でああるはずはない。そこで、改正という手続きを取ったが、通説とされる宮沢俊義の見解は「八月革命」という歴史的事実の擬制的な説明を援用して改正の根拠として「改正ではなく革命があった」というのである。
 占領下における超憲法的な状況でのやむを得ない
決定だったのである。
 現憲法はこうしたパラドックスに彩られているが、安倍政権の改憲策動により旧憲法と同じような事態が現出してしまうことを考えれば、改正によって全く異なる憲法が制定されるような解釈はロジックとして許されるべきではないと強く思う。
 最初に論じたように護憲派であれ、改憲派であれ
憲法の改悪を目指す勢力の暴挙を断じて許してはならないのであり、先に述べたようにこの際、憲法学者らのアホらしい設問自体を批判するべきなのである。
以上。