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0585 平和憲法は誰しもの生命を守る―映画「あの日の声を探して」を観て思ったことなど 2015/05/05 13:04:33
憲法記念日は各地で催しが行われた。横浜では3万人が集まり、私たちの暮らしの根幹をなすものとしての憲法を大切に思っている人たちが声を上げ、思いを語った。しかし、その声が安倍政権に届いているとは思えない。「馬耳東風」いや「狐狸耳東風」?

憲法9条に照らせば違憲としかいえない「集団的自衛権」。米国に追随して、自衛隊を海外に派遣して行くという。日本は独立国であり、「自衛」というのは、自国が脅かされたときに言えるものなのに、他国の戦争にまで首を突っ込みたいらしい。それを、憲法を顧みることなく「拡大解釈」でやってしまうというのだから暴挙だ。

私たち日本人は、戦後、平和憲法を持ったことで、国家として海外の人を誰1人殺さなかった。戦争に憲法九条という歯止めがしっかりかかっていたからだ。それをなし崩しにすることが、どんなに日本国民にとって大きなことか。

過日「あの日の声を探して」という映画を観た。これはロシアの第二次チェチェン侵攻を背景にしている。両親をロシア軍に殺された姉弟が別れて家を捨てて戦火を逃れる。9歳の弟ハジは、自分には赤ちゃんは育てられないと、他人の家の前に幼い弟を置いてくる。そのショックでハジは声が出なくなる。話せないハジのふっくらした頬を流れる涙に、戦争の残酷さを見る。

この映画には、もう1つのストーリーが絡む。街を友人と歩いている音楽好きの青年コーリャが、突然、ロシア軍に強制入隊させられる。殴られ蹴られ、厳しく鍛えられ、震えながら戦闘に放り込まれ、チェチェン人の死、仲間の死を目にしながら、「1人前の兵士」になっていく。それは、彼の優しい心が捨てられ、人の死に慣れ、他人の痛みを感じなくなっていくことなのだ。

私たちは、わが子、わが孫を、こんな状況に投げ入れたいのか? 勝手に「敵国」をつくり、兵士だと若者を、ゲリラかも知れないと子供たちの親を、子供の命さえも、平気で奪える人間を育てたいのか? 戦争とはこういうことなのだ。

バーチャル老人党を始めたなだいなださんは、「軍隊は人を殺す組織だ」と書いた。それを読んだ読者から、「私の夫は米軍にいるが、国を護る立派な軍人だ」という反論が来た。なださんは、それに対し、「立派なお人柄なのでしょう。しかし軍隊は戦争が仕事である以上、人を殺す組織であることは間違いがない」と、譲らなかった。

多くの戦争は「国益を守る」「国を護る」と言って始められる。そして国の最も大切なもの、それは国の土地でも財産でもなく、最も大事なのは国民なのだが、その国民を傷つけ、殺してしまう。それをこの70年間して来なかったのは、憲法九条に守られていたからだ。

私自身は、憲法を変えることを悪いとは思っていない。時代と共に合わなくなっていることは変えて行った方が良いと思う。しかし、この政権のもとで、この政権が出している憲法法案は、国民を大切にするという点で、真逆の方向に行っている。こんな憲法に変えてよいはずがない。いま、ことにこの政権下で、決して憲法を変えてはならない。

先ほどの映画で、ハジが1人で民族舞踊を踊るシーンがある。「愛国心」とは、武力を使うことではない。その国の文化を愛し、互いの国の文化を尊重することではないかと思う。