呼出完了
0578 傲慢トップは経営リスクか 流水 2015/03/22 10:39:26
3月16日付朝日新聞に興味深い記事が掲載された。題して≪傲慢トップは経営リスクか 「人格障害」ビジネス界注目 ≫  

多少長いが引用してみる。
・・・・・・・・・・・
「トップが暴走して、会社や組織が存亡の危機に立たされるというケースは多い。これは会社の大小、組織の大小にかかわらない。存亡の危機とまではいかないが、【傲慢】なトップに悩まされる人は多い。
英国では、英国では、傲慢を「人格障害の一種」ととらえ、対策を考える研究が始まっている。ビジネス界も、「傲慢」は経営リスクと見て、注目している。 トップが助言に耳を傾けず、冷静な判断ができなくなって経営につまずく。これを「傲慢症候群」と名づけ、提唱しているのは神経科医の経歴をもつ、英政治家のデービッド・オーエン元外相・厚生相(76)だ。病気ではないが「権力の座に長くいると性格が変わる人格障害の一種と言える。・・・(中略)
長く権力の座にあると、自信過剰になり、周囲が見えなくなる。ニューヨークで、乗務員のサービスに激怒して飛行機をひきかえさせた「ナッツ騒動」も、「傲慢」の代表例だ。・・・(中略)・・

■「傲慢症候群」の14症例

@自己陶酔の傾向があり、「この世は基本的に権力をふるって栄達をめざす劇場だ」と思うことがある
A何かするときは、まずは自分がよく映るようにしたい
Bイメージや外見がかなり気になる
C偉大な指導者のような態度をとることがある。話しているうちに気がたかぶり、我を失うこともある
D自分のことを「国」や「組織」と重ねあわせるようになり、考えや利害もおなじだと思ってしまう
E自分のことを王様のように「わたしたち」と気取って言ったり、自分を大きく見せるため「彼は」「彼女は」などと三人称をつかったりする
F自分の判断には大きすぎる自信があるが、ほかの人の助言や批判は見下すことがある
G自分の能力を過信する。「私には無限に近い力があるのではないか」とも思う
H「私の可否を問うのは、同僚や世論などのありふれたものではない。審判するのは歴史か神だ」と思う
I「いずれ私の正しさは歴史か神が判断してくれる」と信じている
J現実感覚を失い、ひきこもりがちになることがある
Kせわしなく、むこうみずで衝動的
L大きなビジョンに気をとられがち。「私がやろうとしていることは道義的に正しいので、実用性やコスト、結果についてさほど検討する必要はない」と思うことがある
M政策や計画を進めるとき、基本動作をないがしろにしたり、詳細に注意を払わなかったりするので、ミスや失敗を招いてしまう

■権力と人格に密接な関係

「傲慢学会」は、権力に酔った指導者たちが冷静な判断力を失い、政治や企業経営などをあやまる危険性を研究しており、2012年から英国で開いている国際会議を中心に活動している。 ・・(中略)・・
 「過信や高慢は人格を変え、傲慢人間をつくりだす。助言は求めず、まわりに耳もかたむけなくなる。万事につけ、おおまかなことに目が向いてしま い、ことの細部を気にしなくなる」とオーエン氏。これが長びくと、過失が増え、とりかえしのつかない失敗に突き進む危険性がある。
 症候群にかかりやすいのは、年齢を問わず「権力の座についてからも、成功をおさめてきた人」。発症する時期は「実権をにぎってから、ある程度の年 数がたってから」。まわりにごますりの「茶坊主集団」が出没しはじめると要注意だ。在任中に大きな難局を乗り切り、自信を肥大化させた人も発症しやすい。
・・・≪朝日新聞デジタル≫
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「傲慢症候群」の14症例をよく読んでいただければ、当てはまるトップや権力者の如何に多いかが実感されると思う。これは、地位の大小、理念の是非などとあまり関係ない。わたしの経験では、自らを頼む人間、上昇志向の強い人間、差別思考の強い人間に多いように感じられる。

特に我が国のトップの感性、そのお友達のNHK会長や作家と称している曽野なにがしなどの感性は、この【傲慢症候群】の症例にぴったり当てはまると感じる人も多いだろう。

英国では、【傲慢】の症状を【人格障害】と捉えているというところが、この記事の味噌。【傲慢】を精神病理学の対象として理解する、というところが、如何にも欧米的。日本なら、人格の未熟さとして、座禅でも組ますところだろう。

この【傲慢症候群】を人一倍自覚し、自制し続け、天下人に上り詰めた人物がいる。徳川家康である。よく知られているように、家康は、武田信玄との「三方ケ原の戦い」で惨敗する。彼は命からがら浜松城に逃げ帰る。その時の様子は、恐怖のあまり大小便垂れ流しの悲惨な状況だった。同時に、彼を逃がすために多くの三河武士が犠牲になった。その時の事を忘れないために書かせた自画像を生涯傍に置き、自らの慢心を戒めたと語り継がれている。

徳川家康 しかみ像http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h20/03/obj01.html

実は、家康、若いころはきわめて短気で、側近のものに当たり散らしていた。「三方ケ原の戦い」も後年喧伝された織田軍の加勢が少なかった、というのは、眉唾で、相当数の加勢が来ていたのが実情に近いと思われる。と言う事は、この場合、野戦に打って出ず、籠城をするのがベストだったはず。何故なら、当時の足軽たちは大半が農民。籠城して少し粘れば、農繁期に入り、信玄は引き上げざるを得ない。さらに織田軍の援軍も期待できた。野戦に打って出る必然性はなかったのである。おそらく、家康は、信玄軍が浜松城を無視して進んだ事に我慢できなかったのであろう。当時、家康は31歳。若かったため、我慢できなかったのであろう。野戦の名手として喧伝され、多少「傲慢」症候群にかかっていたのかも知れない。

この【傲慢症候群】は、【権力のデーモン】とでも言うべきもので、これから逃れる事が出来た権力者は、きわめて稀である。【権力のデーモン】は、上は、国家権力者から下は会社の課長クラスに至るまで、およそ権力・権限のある場所に生きる人間に必然的に起きるもので、人間社会の業とでもいうべきものである。わたしの経験した小さな組織でも、権力者の【傲慢】は幾度となく経験した。諫言より甘言に弱いのが人の常。こういう【傲慢】な権力者の周りは、甘言を弄する人間で満ち溢れる。

この【傲慢】を制御できるのは、【自分は間違っているかもしれない】という【もう一人の自分の目】以外にない、と思う。諫言をしてくれる部下の言葉を聞く耳を持つ事である。

家康の偉さは、【自らの失敗体験】を【自分は間違っているかもしれない】という普遍性に昇華し、常に外からの目で自らの判断を検討したところにある。彼は、部下たちの話を実によく聞いていた。【愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ】と言われるが、家康は単に経験しただけでなく、【経験】を【普遍性】に昇華できる能力があったのであろう。

この自覚なしに権力を行使すれば、いずれ大きな過ちを犯す。独裁政治、専制政治が恐ろしいのは、【自分が間違っているかもしれない】という自覚なしに、ただ権力を恣意的に行使するところにある。こういうタイプの人間は、過去の世界中の独裁者がそうであったように、きわめて【小心】で【臆病】で【猜疑心】が強く、【理性的】でなく【感情的】な場合が多い。その為、その言説は、詐術に満ち、牽強付会の議論が多くなる。英国が、【人格障害】理論を振りかざすのも無理はない。

現在の日本の政治や言論空間の最大の危機は、この種の議論が満ち溢れ、【自分が間違っているかもしれない】という恐れとか不安があまりにも欠落している所にある。破綻しているアベノミクスを正当化するために、無理やり株価操作をする。歴史上ありもしない「トリクルダウン理論」を正当化するために、大企業の賃金に政府が介入する。憲法をなし崩しにするために、無理やりの解釈改憲を行い、それに合わせる屁理屈をこねまわす。これに異を唱える言論人は、大手メデイアから締め出される。今や、政治の言説は、国民を騙すために存在しているとしか思えない状況である。【傲慢】が制御できず、ますます増幅している危機的な状況である。

このまま進展したら、日本の戦後の民主主義の歩みは、全て水の泡に帰してしまう崖っぷちに立っている。わたしたちは、最後までNOという気概を持たなければならない。