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0558 今回の選挙をどう迎えるかで民度が問われる! 流水 2014/11/17 14:11:17
今回の選挙をどう迎えるかに民度が問われる!
先日、報道ステーションにアフリカで活躍している人物が、コメンテーターとして出ていた。(名前を失念)

今回の突然の解散についての彼の発言は、大要以下のようである。「大歓迎。アフリカの独裁国家を見ていると、選挙が如何にありがたい事かよく分かる。解散の大義についていろいろ意見があろうが、選挙できる、という事を喜ぶべきだ」と発言していた。

この意見、実に新鮮だった。「選挙」で指導者を選ぶという事は、民主主義の基本。この基本をありがたい、という新鮮な感覚で迎えられる、という人は、日本ではそう多くない。逆に選挙権を行使しない人が増えている。つまり、「選挙」なんて、という斜めに構えた人が増加しているという事だろう。アフリカの独裁国家などに暮らす人々から言わせれば、「なんてもったいない」と言う事になる。

実は、現在の日本の惨状は、【選挙を棄権する】人=政治を馬鹿にし、意味を認めない人の増加がによってもたらされている、といっても過言ではない。様々な理由があろうが、自らの一票を投票する権利を放棄するのは良くない。

この現象は、選挙に行く事を「義務=苦役」と考えている人が多い、という事を示している。義務とか、苦役と考えるから、棄権という行為を行う。自分たちの未来や運命を託す人を自分たちが選択できる、という事の「ありがたさ」を噛み締めれば、棄権などできるはずがない。

北朝鮮の悲惨な政治体制を馬鹿にする日本人は多い。中国共産党の一党独裁を嘲笑う日本人は多い。では国民の多くが選挙を棄権して、現在の安倍政権のような似非民主的独裁を許している日本人は彼らを笑う資格があるのだろうか。権力とは、悪魔の誘惑である。この蜜の味を味わった政治家は、いついかなる時でも『暴走する』危険性がある。

政治家は有用な存在でもあり、危険な存在でもあり、諸刃の剣的存在である。彼らを国民にとって『有用な存在』として使うためには、国民の不断の監視が必要である。憲法にいう権利を守るための『不断の努力』とは、この事を意味している。この監視の最大の機会が『選挙』。これを棄権するという事は、権力の危険な暴走を容認する事である。

権力の危険な暴走を止め、政治家を『有用な存在』に転化させる最大の機会が選挙である。冒頭に書いた『ありがたい』という気持ちは、何よりも国民一人一人の権利を認めた日本国憲法の精神に対する感謝であり、それを具現化してきた先人たちに対する感謝であろう。
わたしたちは、安倍暴走政権を止める機会を得たという【感謝】の気持をこめて、今回の選挙を迎えるべきであろう。