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0545 憲法に照らし合わせて考えよう 2014/08/28 14:34:13
憲法九条一項二項をきちんと守れば、自衛隊は即時解散、防衛相は不要となるのかもしれない。しかし、実際には自衛隊は存在する。そして自国の防衛という個別的自衛権を越えて、安倍政権が「集団的自衛権」を閣議決定した。

私は漁村に育ったので、1952年に韓国大統領の引いた李承晩ラインによって、13年間に、4000人近い日本の漁民が拿捕されていたこと、死者も出ていたこと、その李承晩ラインが、1965年の日韓基本条約時に日韓漁業協定で、ようやく廃止された時を覚えている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%89%BF%E6%99%A9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3

その時、漁師のおじさん達が「えらい目におうとったが、海上自衛隊もようやっと強うなったから、悪さもされんようになったんじゃ」と言い合っていたのを覚えている。私は、「そうか、国を守るというのは、こういうことなのか」と思った記憶がある。

その記憶があるためなのか、私は平和をはっきりと謳う憲法九条を守らねばならないと思いながら、いまの世界情勢の中で、自衛隊を無くす…ということが、果たして可能なのか?という思いが拭えない。

となると、「武力を肯定しながら護憲派と言えるのか?」という厳しい声が聞こえてきそうだ。事実、全くの「非武装、自衛隊は解体」を言う方々も、護憲派には多い。

また、護憲派なら九条にあるように、「A 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」であるべきで、そうでないのなら、この条文を改正する方に回るべきと言う声もある。

となると、私にとって、護憲は矛盾を起こしているかというと、そうは思わない。例えば、別の条項をみてみよう。
「第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
「第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 」

これに反対する人は、まずはいないだろう。しかし、世の中はとても平等とは言えないし、差別されないなんて、よほど運が良い人でもない限り、様々な差別に出会う。「健康で文化的な最低限度の生活」を営めない人も少なくない。しかし、それでもこの憲法条項を変えようという人はいないだろう。

つまり、憲法は政府を縛るというのは、政府は、憲法に向けて、そうなるように努力をするべきということなのだ。法律を作るときに、それが国民を何らかの形で差別を減らし、健康で文化的な生活を築き易くする方向になっているのかいないのか。照らし合わせて法律を作って行かなくてはならない。

では、「秘密保護法」はどうか。「第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 A 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

この第二十一条は、表現の自由のための国民の「知る権利」と表裏一体と言われてきた。となると、「秘密保護法」は、情報の収集活動が公権力によって妨げられないという国民の権利と、公権力に対して情報の開示を請求する権利を、侵しているのではないか?

そして「集団的自衛権」は、明らかに「憲法九条」からより遠い方向に、国民を持って行こうとしている。

「憲法は、国民の理想」というと、「では、守らなくていいのか?」「それでは法とは言えないだろう」という声があるが、そうではない。国が法律を作るときに、照らし合わせる方向を定めているともいえるのではないだろうか?

国民の権利、国家としての在り方、政治家や官僚は、法律を作るとき、日常的に国民のために働くとき、憲法の方向を向いた仕事をしているか、背を向けてはいないかを確認すべきなのだ。

「集団的自衛権」も「秘密保護法」も、憲法に定められた国民の権利を侵害していないか、国民の生命を危険に晒す方向ではないのか? アフガニスタン支援を続ける中村哲氏も、「他国(日本)の軍隊が戦闘をすれば、その国の人々の目には侵略者に映る。侵略者に守られているNGOの職員は狙われ、かえって危険になる」「集団的自衛権の行使によって欧米同様、日本人という理由でテロの対象になれば私の仕事は続かない」と話している。

憲法の方向を向いているかどうか、そこに照らして考えたい。