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0533 Re: 護憲コラム 百山 2014/06/09 16:55:04
<レジームの見直しは>
  この国の今を生きる人々の過半、いや、もうその大部分は、1945年以降に生を受けた人たちへと時代は進んだ。
 数えたてるまでもなく、その先頭から10才ぐらいまで下の勤め人の方々は、好まざると言えどもはや第一線から退き、己が過ぎ来し日々を振り返りつつ、悠々自適やら新たなる世界への挑戦やらなどなど、「自分史」の 新しい ページに思いを馳せる年頃となっている。
 嗚呼、もうこの国では<一億火の玉や神風!>などと言う言葉には「キョトン」の人々が中心になって、諸々が動いているのだ。
 そのような「時代」だったのだと言えばそれまでのことではあろう。しかし、その「時代」をくぐり抜けて来た人たちだからこそ、1945年の夏を境に180度変わった「景色」を、何物にも代え難い宝物のようにも思えるのではなかろうか。もう絶対手放さぬ、後戻りはしない。この思いと共に歩んできた「戦後」である。

 超客観的に俯瞰すれば、この「戦後の歩み」の中には、無益・無用と切り捨てられるものも有ることだろう。しかし、大日本帝国憲法と日本国憲法とを読み比べたとき、前者・後者どちらを取るかと問えば、圧倒的多数の人々が後者と申されよう。その証左は、前者が作り上げた時代への回帰を望む声・澎湃(ほうはい)を、一度も目の当たりにすることなく今日に至っているその一事で十分と思うのだが如何でしょうか。
 この国土の上に築かれた「社会」。その在りよう・進みようを決定づけるのは誰か。「神」を祭り上げるなどする、権力欲・物欲に取り付かれた一握りの専横者たちか。額に汗して共助共生を至上として励む名も無き人々か。
 それは後者であり、人々は全て平等。それぞれが個々人として尊重され、言われなく人生の全うを阻害されることはない。奪うか奪われるかの命を賭けての最大の愚行・戦争は、永久に行わないとした憲法の下、人々は安んじて荒廃からの復興に取り組んできた。

 だが、もうそれは過ぎ去った忌まわしい昔のこと。最高法規と謳われようも、所詮は敗戦国を二度と立ち上がれないようにするための戦勝国の遠謀から出た押し付け。独立国であるためには、自前の憲法が不可欠。現憲法下での(自分の意に沿わぬ不都合な)仕組みは、総見直しとの猛々しい声が響く。
 本当に そう なのか。
 良いものは良い。武力を以って他国と争うことなく、平穏裡に国際関係を保って来た。これは憲法前文と同第9条の力だ。だが、不幸にも、朝鮮半島の動乱と国連の「固有の権利としての自衛権」とを奇禍とするがに設置し、警察予備隊、同保安隊、自衛隊と変貌させてきた<勝つことを使命とする組織>の存在は、「平和国家」の顔を台無しにさせている。
 為政者はこれに気付かないものなのだろうか。
 安全保障環境の変化(悪化)と声高だが、それを杞憂に終らせるための努力は十全か。児戯にも劣るような言説を並べ立てての「集団的自衛権論議」。
 わが身に累が及ぶような「見直し」に及び腰は世の常であろうが、自衛権論議も含め、このような「大事」を仕切るには、役不足の感否めない面々。

 全て俺が仕切る風情の総理大臣以下、細分された選挙区で10〜20万人程度の支持を受けて当選すれば、1億人前後の有権者を上から目線で見下せる現行制度に疑問を感じないものなのか。
 「民主主義=多数決」と信じ込まされ、信じ込んで動いていく「主権在民」だが、少数意見と言えども切り捨てずを前面に、国政等の運営に踏み出す政治集団は、現れないものなのか。
 
 「主権在民」をより実感できるレジームの構築が、「平和の旗振り」には不可欠と思うこの頃である。