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0523 愚か賢か 百山 2014/04/07 13:55:05
 かつて、この国は、「神(!)の治める国」だった。
 それは、この地上全てを覆いつくして張り巡らされた仕切りの中それぞれで、営みを続ける人々の、生き継ぎを根拠付けるための、様々な原初類型の一つとして指折られるものであり、語り継がれる「歴史」としては、取り立てて特異なものではなかったとは思う。
 しかし、科学・技術・思想の急速な発展、近代化の潮流の中で、「神の統治」と言う隠れ蓑を巧妙に操り、国民性を「絶対服従」一色に染め上げて、あらぬ方角に向けて走り出させた者たちの存在が、多くの悲運を招いたことは、否定の仕様もない歴史上の事実。
 
 「畏れ多くも畏くも」の声が発せられると、全員私語も止め、直立不動の姿勢をとり、シーンと静まり返った空気の中で次に発せられる言葉を待つ。
 柵で仕切られ、手入れの行き届いた芝生の小道の奥に佇む「ご真影」などの納められた「奉安殿」の傍には、滅多には近づかない。やむなく通りかかる時は、私語を慎み、足早に遠ざかる。
 こんなこと書いても、なんのこと?が、今はもう、七十台半ばを過ぎた年配の人たちの層にまで及ぶ、時の流れの速さ。
 
 こんな時代に「別れ」を告げるに、どれだけの代償を支払って来たことでしょう。そして「傷跡を埋めるための負い目」という、歴史を書き換えない限り消えることのない債務の終わりなき残存。
 
 朕は神にあらずとのたまわれ、現人神から人間天皇へという時代に入ってもう七十年近く。この間に築き上げられてきた様々な仕組み。もとより時々刻々世の中は変わる。それに柔軟に対応するは言うまでもないことながら、「戦後レジームからの脱却」の一語で、「不滅のレジーム」たるべき「国民主権・人権不可侵・絶対平和」を踏みにじるような舵取りを進めようとする機運は、如何なものか。「血統」に寄りかかった不条理の見直しを、更に一歩進めようかと言うなら判る。
 もし心有らば、この国の人口統計・年齢別男女別を眺めやって欲しい。そこからは、問わず語りの課題が読み取れるはず。
 レジーム如何は、これを基点として進めるべきであり、某国のポチよろしきをまっとうする為に想起するようなものでは「舵取り」の名が泣く。

 「積極的平和主義」と言う。この中にある「平和」と言う言葉・状況を、なんと捉えているのか。
 「固有の権利」とされている自衛権。しかし、日本国憲法第九条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)を如何に読むと言うのか。この条文の下において、他国の自衛権の発動に、どのようにして寄与しようと言うのか。
 武器があるから戦争があると言っても過言ではない人類の歴史。これの際限のない拡大・性能アップ競争。しかも、それの輸出拡大とは。
 勝つことを至上とする組織を抱え、防衛と冠を付けての産業の更なる利益追求に肩入れするとは、「平和主義」の言葉が泣くだろう。その隠された実像に思いを馳せると、背筋の凍り付くような思いが走る。
 「秘密保護」だとはしゃぐ前に、その「秘密」とは何ぞやと問い直す度量もないのだろうか。

 無人の偵察機が墜落していると大(?)騒ぎ。だが既に、犬猫大とまでは伝えられていないが、かなりの物体までは識別可能な偵察衛星が、飛び回っているはず。必要を感じる国には、その情報をにっこり笑って差し上げればいい。それくらいの度量こそが「平和」には欠かせない。
 秘密、秘密と抱え込んだり、日付のない辞表を積み上げて置くなど、愚かとしか言いようもない。
 一世紀に満たぬ直近の歴史を素直に読み返せば、吾が立ち位置をどこにとるべきかは、多言無用、自明自得の筋道がそこには広がっているとするのが、自然としたものであろう。

 更にもし、日本国憲法第九十九条(憲法尊重擁護の義務)を素直に読み取れないとされるならば、賢愚を問わず、このレジームの中に身を置く資格はないものと自覚して身を処し、他に己が信条を実現すべき道を探る。
 これこそが、王者を自負(?)する者の歩む道だと、心底から思うこのごろである。