呼出完了
0513 改めるということ 百山 2014/02/10 17:57:54
 人それぞれが、己の考えを形作っていくとき、その根底に何を置いて思索を巡らしたかは、導き出されて来た主義・主張(思想)の全体像を、大きく左右する。
 そして、何に置いたかを大別すれば、それは自らの経験か、他者から得た伝聞かのいずれかになるのであろう。

 人の一生は短い。その「実りの期間」は、せいぜい40〜50年、その中で自らの「経験」となし得る出来事は、いかほどのものであろうか。決して多いとは言えまい。
 よって、「人」は、他者の経験や伝聞となって継承されて来たもの等などに謙虚に向き合い、自らの足らざるを補いつつ思考を重ね、己の「年輪」の更なる豊かさを求めて、彷徨い続ける。 

 このような視点で四囲を見やる(当然のことながらそこに登場するのは、現に人々の耳目を集めている各界の「主役」たちと言うことになるが)とき、先ず焦点を当てるのは、その人の判断次第で人の命運を大きく左右し得る場所に身を置く方々、となるのではなかろうか。

  この国が「戦争」という愚かしき争いと縁を切って、既に68年。その年に生まれ出た子供ですら第一線から身を引くほどの年月が過ぎた。
 だから、もう、「戦争」という実体験のない人たちが、この社会の牽引・推進役となっているのだ。
 そういう状況下にあって、心すべきは、「戦争」というものを、自分の中にどう位置づけるかということであろう。
 あろうことか、今なお、この地球上で自国民同士が殺し合いを演じているものを散見する。
 
 それを何と見るのでしょう。
 この国において、人々の命運を大きく左右し得る場所に身を置く方々にも、問うてみたい。我意を通すためには、一時的な「悲惨」は避けられぬ手段だと肯定するのか否かを。

 「押し付けである」と、声高に語る人たちが存在するのは事実ながら、別称「平和憲法」とも呼んで「新しい国づくり」の背骨・基盤となってきた「日本国憲法」。前文以下この憲法が指し示す「世界」は、この地上に生を受けた、全ての人類の共存・共栄を保障する。
 しかし、悲しいかな、この憲法の足元に位置したこの国の人々が、その実現のために、どれだけの力を振り絞ってきたというのでしょう。
 この国の歩の進め方は、正に「真逆」に近い。そして、それは近時、あるまじき加速の様相すら示している。

 以前にも書いたが、「日本国憲法」の生い立ちに関し最大のあるまじきは、明治憲法・大日本帝国憲法の改正(第73条)という形式を踏んだことと考えている。帝国憲法のどこをどう改めたというのだろう。両憲法間にどのような橋が架かっているというのか。
 これは、「革命」以外の何ものでもない。「神」が「人間」になったことと軌を一にする。
 現憲法にも、改正条項(第96条)は備わっている。しかし、巷間伝わるような某党の改正案は、この条項に依拠して行いうるようなものではない。やはり革命であろうと。

 「国民主権、人権尊重・不可侵、絶対平和」の三本柱と、憲法前文及び公布記念式典の勅語に違背する改正は、改正とは言えぬ。正面切って「革命」と問うものを持っていると自負するのか。

 解釈改憲なども、もってのほか。論理第一の解釈を徹底すれば、文理解釈などの小手先は、影もなかろう。
 「積極的平和主義」なる御旗は、この憲法の下にあってこそ、真に光り輝くものと成り得よう。