呼出完了
0509 流行り歌と東京知事選 流水 2014/01/17 15:12:58
細川元首相の立候補で東京知事選が面白くなってきた。政治論的には、様々な理屈がつくだろうが、それは賢い評論家どもにお任せして、わたしは「流行り歌」的視点から今回の知事選を考えてみたい。

日本の「流行り歌」(※広義には日本の大衆歌謡一般のうちレコードが発売されるようになってからの、商業的に「流行」つまりヒットさせることを目的に作られた、独唱または重唱の演奏時間が数分以内の歌曲のこと)(ウイキペデイア)の歴史は、百年以上たつ。

「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉が象徴するように、戦前戦後を通じ大衆の喜び悲しみの裏には「流行り歌」があった。

・・・「歌は世につれ、世は歌につれ」と言う言葉は嘘だ。【世は歌につれ】などと言う事はない。【歌は世につれ】しかないんだ・・

五木寛之は、小説「艶歌」の中で主人公にこう語らせている。わたしもそう思う。しかし、「流行り歌」のありようを子細に見ていると、時代のありようを先取りしているようにも見える。

少し、具体的に見てみよう。私たちが若い時、パチンコ屋や商店街は、雑多な音に満ちていた。その中で必ずわたしたちの心の琴線に触れる歌があった。たとえば「泳げタイ焼き君」のように。いわゆる【国民歌謡】と呼ばれる歌。わたしたちは別に覚えようとしなくても、いつのまにか歌詞を覚え、メロデイを口ずさんでいた。

これには、様々な理屈が考えられるが、そういう歌詞やメロデイを受け入れる共通の感性が私たちにあったことは間違いない。同時に、国民的ヒットを飛ばした歌には、共通して鋭い言葉があった。「人生いろいろ」とか「タイ焼き」など、一言で理屈を超えて人々の心を鷲掴みにする言葉があった。

しかし、最近の歌には、そのようなインパクトはない。理由は明白。今は、おたく的にある歌手のCDが売れる事はあっても、商店街やパチンコ屋で流れて人々の心をつかむ事はない。歌も個別細分化されているためであろう。

さらに機器の進歩により、今や誰でも作曲家や作詞家になれる時代になっている。人の歌より、自分の歌。今やそういう時代なのだろう。もはや「潮来の伊太郎」と誰もが口ずさめた時代は、過ぎ去ったのである。

今回の東京都知事選、おたく的に細分化した政策課題を得意顔に語る舛添要一と【脱原発】の一言に賭ける細川元首相の争いになるであろうことは容易に想像がつく。

【流行り歌】が消えうせた時代に寒々とした思いを抱いている人とおたく的に個別課題だけに熱中する人との争いと言っても良い。

細川元首相が勝利するためには、【脱原発】の言葉を、どれだけ人々の心にストンと落とせるか、の一点にかかっていると思う。

「毎日毎日鉄板の上で焼かれて厭になっちゃった」というフレーズのように、【脱原発】のフレーズがストンと都民の心に落ちるかの争いになる。

【流行り歌】など死語になりつつある時代に、【脱原発】の言葉が、どれだけ「言霊」となって人々の心の奥底に眠っている【埋もれ火】に火をつけるかにかかっている。わたしは、都民の人の【埋もれ火】に賭けたいと思う。