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0462 スポーツのありよう(体罰問題を通して) 流水 2013/02/18 11:19:27
桜宮高校バスケット部顧問の体罰に端を発した主将の自殺は、学校スポーツ(とくに部活動)の指導のありように大きな影響を与えた。さらに、日本女子柔道代表の監督に対する体罰に関する訴えは、日本スポーツ界に公然の秘密として存在していた暴力的体質・垂直的組織体質など多くの問題を露わにした。

私自身も長年にわたり部活動でバレーボールの指導に携わってきた。その中で体罰に類する行為をしなかったと言えば嘘になる。部活動を熱心に指導してきた教師の大半はそうであろうと想像する。ただわたしはバレーボールを教師になってから覚えたので、競技の専門家ではなかった。その為、勝利に対する執念は専門家に比較して弱かったといえる。それが勝利至上主義から辛うじて逃れた要因だった。

現在、わたしは教え子が始めたバレーボールクラブの顧問兼コーチをしている。クラブの理念は、端的にいえば【バレーボールを好きになってもらう】事である。もう少し恰好をつけて言えば、【生活の一部としてバレーを愛してもらい、生涯バレーとともに暮らしてもらいたい】という願いから設立したものである。換言するなら、【スポーツの日常化】である。

現在、クラブ員は総数70名余り。年寄りから幼稚園児まで含まれている。小学生バレーやママさんバレーはよく聞かれるだろうが、それとは明確に一線を画している。ここでは勝利のために特化した練習はしない。そうではなくて、純粋にバレーを楽しむためのフィットネスや技術を教え、バレーボール競技の持つ楽しさを中心に指導している。

なぜこのようなクラブを結成したのか、というと、最初に書いた日本のスポーツの閉鎖的体質・暴力的体質・差別的体質(良い選手だけを選抜する)が、人々からスポーツを愛する思いを奪っているという認識があったからである。

本来、スポーツは、人間にとって不可欠な存在でなければならない。身体を動かすということは、肉体のみならず精神衛生上きわめて良いものである。毎朝の散歩・ジョギングを楽しむ人、スポーツクラブなどに通う人の多さを考えれば、上記の事は納得であろう。学校スポーツの本来の意味もそこにある。それがいつのまにか、選手選抜のためのスポーツに変質した事が、今回の問題の背景にある。

もう一つは、日本のスポーツ界に蔓延する【精神主義】が、拍車をかけている。スポーツ指導の原点は、人間の肉体を合理的に動かすスキルを教える事にある。もう一つは、強健な肉体を育てる事にある。つまり、スポーツ指導というものは、本来もっとも合理的・科学的指導でなければならない。ところが、行き過ぎた【精神主義】は、スポーツ指導の持つ本来の合理的・科学的側面を侵食してしまった。それが、今回の全柔連の女子柔道への体罰問題に象徴されている。

学校の部活動の体罰問題は、これに【生徒指導】という問題が加わる。問題児の指導という大義名分が、部活動指導の体罰問題と深くリンクしている。男子の暴力的問題児を【生徒指導】の名目で多くの部活動が抱えている。彼らには、暴力的体罰がかなり効果的である事は否定できない。学校・校長などにとってありがたい事であった。これが、部活動における体罰があまり明るみにでなかった要因の一つである。

今回の事件の背景は、単なるスポーツだけの問題ではない。日本の文化・精神など深い背景が含まれている。桜宮高校の問題、全柔連の問題に矮小化すべきではない。

わたしの関心から言うと、日本の公教育の理念の問題に深くかかわっている。公教育の目的は、【わたしたちの社会を維持・存続できる人材を育成する】事にある。「国家」ではなく「社会」と言うところが重要。【社会】は出来の良い人間も、できの悪い人間も金持ちも貧乏人も等しく包含する。この社会を維持し存続させる人材を育成するのが公教育の本来の目的である。

そういう目的から照らすと、勝利至上主義的な部活動のありようは、本来間違っている。そうではなくて、人間の生活の一部としてなくてはならないスポーツを生涯愛する人間を育成するのが、学校スポーツの役割であろう。

今回の問題を単に桜宮高校などの問題に矮小化すべきではない。