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0415 「旗ふるな、旗ふらすな」 流水 2012/03/20 11:19:48
城山三郎の詩の一節である。3・11からはや一年。政治の漂流、メデイアの漂流が止まらない。「この程度の国民にこの程度の政治」という箴言からいえば、これは日本人の漂流が止まらないことの裏返しだろう。

「絆」を叫べば、東北の被災地の人々の苦しみが軽減するわけでもない。「絆」を叫べば、被災地の瓦礫の山がなくなるわけでない。「絆」を叫べば、放射能汚染の恐怖がなくなるわけでない。【希望】を叫べば、明日の食費が生まれるわけはない。

誰もそんなことは分かっている。分かっていながら、誰もが「絆」を叫び、【希望】を語る。語ることによって、自らの不安と何とか折り合いをつけようとしているように見えて仕方がない。

今回の大震災、戦後「明日もきっと同じ日が続く」という幻想のどっぷりとつかった日本人が初めて直面した【存在論的不安感】だった。【人間という存在】【自分という存在のはかなさ】を目の前に突き付けたのが、3・11の大震災だった。

倉敷の大原美術館にキリコの「アンドロマケイとヘクトールの別れ」という作品がある。ギリシャ神話に題材をとった作品だが、アンドロマケイもヘクトールもまるでロボットそのままに描かれ、その背景は深い緑色で塗られている。わたしは、学生時代、この絵の前で感じた【足元が崩れ去るような不安感】を忘れることができない。ロボットのような人間の無機質さ、なんとも言えない【不安感】。これこそ現代なのだとキリコは言いたかったのだろう。皮肉に言えば、時代がようやくキリコに追いついたのだともいえる。

実は、城山三郎も戦争という時代を潜り抜け、一人の人間存在の卑小さを厭というほど実感している世代。それこそ戦争という荒波の前では、一人の人間の存在など蟻一匹の存在にも満たない。そんな蟻のような一人の人間が人間としてどう生きるか、どう時代や政治と対峙するか。彼の作家人生を貫いたモチーフだった。以下に一節だけ紹介しておく。

作・城山三郎『旗』
旗ふるな /旗ふらすな /旗ふせよ /旗たため /社旗も校旗も /国々の旗も 
/国策の旗も/ 運動と言う名の旗も/ひとりみなひとり/一つの命/・・・・・

実は、この【詩】は誤解を招きやすい。全ての【旗】を下せば、それこそアナーキーな世界が現出するのではないか。先日鬼籍に入った思想家吉本隆明の【自立の思想】も同様な誤解を受けている。

事情はその逆である。全てを疑い、全てを自分の目と自分の頭で判断し、時代の風潮に流されることなく考え、行動し、かけがえのない自分を大切にしろ。そのかけがえのない自分同士が、議論し、連帯し、行動して、初めて自分たちの【社会】を作ることができる、と言っている。

ここでは、【社会】というのが重要。決して「国家」ではない。戦後日本の経済成長は、農村共同体を破壊した。しかし、社会は破壊しなかった。わたしは過去の日本には近代的な意味での【社会】は存在しなかったと考えている。ないものは、破壊できない。その代わり、過去の日本には、【世間】というわけのわからないものが存在していた。

実は、戦後日本は、農村共同体は破壊したが、【世間】は破壊せず、近代的な【社会】も構築しなかった。その為、【世間】はそのまま生き延びたのである。いまや、TVが【世間】の代表格のような顔をしている。昔の「世間」の負の側面として存在した【噂】や【のぞき見趣味】が何十倍もの規模に増幅し、その毒牙にかかった人間の傷は計り知れない。その破壊力を利用し、政敵を追い詰める典型が小沢事件であろう。ここまでくるとファッシズムそのままである。

城山三郎の【旗ふるな】も吉本隆明の【自立の思想】も、八紘一宇などの美しい言葉に騙された過去の痛切な悔恨が背景にある。橋下大阪市長などの勇ましい言説に幻惑され、自らの存在を委託すればどうなるか。歴史が雄弁に物語っている。

3・11以降の「不安な時代」だからこそ、日本人は、今一度「自らの存在とは何か」を真剣に考える必要がある。