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0407 私見:岡田嘉子−しなやかに美しくそして強かに− 流水 2012/01/26 20:56:50
昨年、NHKプレミアムで「ソ連収容所大陸―岡田嘉子の失われた10年」を見た。1994年に放送されたものの再放送で、17年も前の番組だが、今見ても色あせることのない素晴らしい内容だった。

岡田嘉子、年輩の方の多くはご存じだろう。新劇女優で映画女優、トーキー時代の銀幕を飾った大スターだった。

それよりも何よりも岡田嘉子の名前を人々の記憶に刻み込んだのは、1938年(昭和13年)1月3日演出家杉本良吉とともに樺太国境の雪の荒野を超えソ連に亡命したことである。当時の新聞は、「国境を超える恋」だとか「雪の逃避行」だとか、センセーショナルな題名をつけ、大々的に報道した。

しかし、この二人を待ち受けていた苛酷な運命は、時代と政治に翻弄された人間の哀れさ、惨めさ、卑小さでは表現しきれないものだった。

共産党員だった杉本良吉は、当時日本を覆い尽くし始めた文化統制・言論統制の風潮の中で表現者としての限界を感じていた。彼は、当時ソ連の演劇界をリードしていた【メンエルホリド】に師事し、新たな可能性を見出そうとしていた。

岡田嘉子はその杉本に惚れぬいていた。彼の欲することは何でも聞いたのであろう。事実、この番組でも、後にNKVD(ソ連内務省内務監獄)で同室になったマリアーナ・ツインは、「恋のためソ連に来た」と岡田から聞いたと証言している。

もともと彼女は男に「惚れたら命がけ」のようなところがあり、事実彼女の男遍歴は、当時の女性としては凄かった。服部義治(男児をもうけている)、山田隆弥、竹内良一との駆け落ちなどは有名。・・ウイキペデイア・・
その意味では、スキャンダル女優、奔放な女性という世評もあながち的外れとは言えなかった。

しかし、わたしは、岡田嘉子のように自分の築き上げたキャリアを1人の男のために捨て去ることのできる凄さには敬服する。とてもかなわない、と思う。その強さは彼女のその後の人生にも生かされている。

以下、杉本と彼女の辿った運命を年表風にまとめてみる。・・武田清―「メイエルドルフの暗い環」より引用―
1938・1・7 NKVD議長エジョフ名で逮捕状(スパイ罪)
       アレクサンドロフスク(サハリン)移送
 →ハバロフスク移送→苛酷な拷問による取り調べ⇒嘘の自供
1938・2・21 囚人護送列車でモスクワへ移送
1938・3・13 モスクワのルビヤンカ(NKVDの未決監獄)
1939・6・29 ブドウイルスカヤ監獄 移送
1939・8・4 ソ連邦最高会議軍事委員会へ起訴
1939・9・27 二人に判決 岡田嘉子 禁錮10年
            杉本良吉 銃殺刑(10・20執行)
1939・12・26 モスクワ北東800KMのビヤートカ収容所に移送
1943・1・4 モスクワ移送⇒ルビヤンカ女性用監獄 マリアンナ・ツイン(後のロマン・キム夫人)と同室。
1947・12・4 釈放 ⇒プログレス【外国図書】に就職
           社長がロマン・キム
1948・4   モスクワ放送 外国局日本課就職

無味乾燥な数字の羅列に過ぎないが、よくよく読むと、いかに彼女たちの運命が、世界情勢や政治に翻弄されたかが凝縮して表現されている。

大状況から見てみよう。まず、1938年【昭和13年】という年である。前年の1937年には、盧溝橋事件があり、日本と中国との間で当時日支事変と呼ばれた戦争が始まっていた。

その前年の1936年には2・26事件が起き、日本は、国内的には軍部独裁、対外的には満州事変、リットン調査団報告、国際連盟脱退など国際的孤立化を深めた、いわゆる超国家主義的国家への道を転がり落ちていた時代だ。

ソ連は、スターリンによる独裁時代。1936年にはスターリン憲法制定。1936年〜1938年にはスターリンによる大粛清が行われていた。対外的には、西では、ナチス・ドイツが虎視眈々とソ連邦侵略を狙っており、東では日本の大陸侵略が行われていた。スターリンは、このような世界大戦前夜の困難な状況をいわゆる共産党一党独裁体制の強化により何とか打開しようと試みていた。

このような情勢下で、岡田嘉子、杉本良吉二人は国境線を越えたのである。当然ながら、この二人の動向は、ソ連邦首脳たちの大きな関心を引いたであろうことは想像に難くない。本当に政治亡命なのか、それとも日本から送り込まれたスパイなのか。

年表を引用させてもらった武田清氏は「メイエルドルフの暗い環」の中で、興味深い視点を提示している。

スターリンの狙いは、杉本良吉が学びたいとしたソ連演劇界に多大な影響力を持っていたメイエルドルフの粛清だった。如何に世間知らずの若手演劇家だった杉本でも何の見通しもなく樺太国境線を越える決心をするはずがない。彼にはメイエルドルフの弟子になれる見通しがあったはずだ。

当時メイエルドルフの下に二人の日本人が勉強していた。一人は佐野碩、一人は土方与志。後に佐野は共産党からの転向宣言で有名になる。おそらく杉本の国境越えは、彼らの援助を期待してのものだったに違いない。しかし、彼らは、杉本の国境越え前に、メイエルドルフの下を去っていた。理由は、スパイの嫌疑をかけられたからだと推測されている。

杉本や岡田嘉子の「スパイ容疑」での逮捕は、この文脈で考えれば、理解できる。何としてもメイエルドルフ粛清を狙っていたスターリンの思惑に岡田嘉子、杉本良吉の二人はぴったりだった。この亡命劇を最大限に利用しようと考えても不思議はない。

これが、1938・1月の逮捕以降の苛烈な拷問による尋問に結実している。岡田嘉子は、連日連夜、ほとんど一睡もさせてもらえず、苛酷な取り調べを受けた。そしてついにスパイ容疑を認めた。彼女は、自白調書を取られた直後、杉本の取り調べ室から杉本の悲鳴のような声を聞いている。自分の自白が杉本にどのような影響を与えたかを、その耳で聞いている。彼女の悔恨は、ここから始まった。

彼女は、ビヤートカ収容所で三通もの上申書を書いている。自分は決してスパイではない。わたしの自白は拷問によるもので、真実ではない。「ソ連収容所大陸―岡田嘉子の失われた10年」で映された彼女の上申書の文字は、彼女の悔恨の深さを物語ってあまりある。

同じ番組で、ナビゲーター岸恵子が訪れたビヤートカ収容所の女子棟は、酷いあばら家だった。(収容所廃止の後民家として使用されたので、奇跡的に残っていた。)こんな場所で、零下40度を超える凍てつく寒さの中で彼女は生き抜いてきた。

同じ収容所にいた男性の証言によれば、眠る所は男女別だったが、仕事は一緒だった。女性の収容者に対する性暴力は日常的で誰もそれを不思議とは思わなかった。妊娠した女性は、病院に移され出産し、その子供は女性の親族が引き取るか、多くは孤児になった。

岡田嘉子は、そんな中、「はきだめに鶴」のような存在だったようである。彼女はここでの三年間、泣き暮らしていたそうだ。彼女に淡い思いを抱いていた同じ収容所にいた若い囚人(今は老人だが)は、岸の問いに答えて、遠いところを見るような眼で、「彼女を守らなければならないしね」と答えていた。

そのような環境の中で彼女は必死に上申書を書いた。彼女を突き動かした想いは、何だったのか。杉本に対する罪責の念か、それとも自らの運命に立ち向かおうという意志だったのか。私には、自らのレーゾンデートルの確認作業に見えた。正しさも過ちも含めて自らの人生の正当性の証明への執念に見えた。

1943年、NKVDへの移送については、対日本との戦争に備えて、彼女の日本語力を利用しようと考えたスターリンなどソビエト政府の意図が働いていたことは間違いないだろう。なぜなら、他の囚人たちは、収容所で命を落とすケースが大半なのに、彼女だけNKVDへ移送されるというのは他に説明が考えられないからである。

現にNKVDで彼女と一緒だったマリアーナ・ツインは、日本語課出身だった。彼女は、嘉子について、「ロシア語以外しゃべらなかった」と語っていた。同時に「嘉子は一度も泣かなかった。非常に冷静だった」とも証言している。ビヤートカ収容所では泣き暮らしていた嘉子がNKVDでは泣かない女に変貌していた。この変貌に収容所での苛酷な体験が投影されている。

戦争が終わって2年後岡田嘉子は釈放される。NKVDのことは何も話さない、という誓約書を書いて釈放された。嘉子の自伝の中に、その後カザフスタンとの国境の町チカロフ(現オレンブルグ)に住み、朝鮮系ロシア人ウラジミール・パクと結婚したと書いているが、「ソ連収容所大陸―岡田嘉子の失われた10年」の番組でチチロフの町を徹底的に探しても、嘉子を知っている人はいなかった。生き証人の証言という意味では、彼女の自伝のこの部分は、虚偽であることが判明した。

実は、この時、嘉子は、マリアーナ・ツインの夫が社長だったプログレスに就職していた。その後モスクワ放送外国局日本課に就職し、日本語での宣伝放送に携わっていたと思われる。その後彼女はモスクワ演劇大学に入学マヤコフスキー劇場の演出助手をしていた。その後1972年に一時帰国、「男はつらいよ」などに出演。再びソビエトに戻り日ソ友好大使として尽力する。

さて、一緒に逃避行した杉本良吉がどこで銃殺になり、遺体がどこに埋葬されているかわからなかった。1991年黒海沿岸の都市ソチに「鋼鉄は如何に鍛えられたか」の作者ニコライ・オストロフスキー記念博物館から一通の招待状が届く。彼の著書の日本語翻訳を杉本良吉がしていたためである。

岡田嘉子は高齢を押してソチに出向き、杉本良吉の名誉回復に一役買う。その翌年の1992年岡田嘉子は89歳の生涯を閉じた。

柔和で品の良い晩年の彼女の写真を見ると、彼女の苛酷な半生など想像もできない。人の顔には人生が刻まれるというが、岡田嘉子の写真を眺めているとそんな言葉が嘘ではないかとさえ思われる。

わたしの勝手な想像にしか過ぎないが、岡田嘉子という人は、ステンレスのような強靭な感性の持ち主だったのではないかと思う。どんなに泥をかぶり、どんなに汚れても、水で洗えば以前とおなじように光り輝く。そんな人のように思えてならない。彼女のソチ行きは、彼女の人生の最大の負い目である杉本良吉を裏切ったという行為を洗い拭い去る行為ではなかったかと思えてならない。

わたしは彼女を責めているのではない。彼女は、昔のことはすべて忘れたといっても構わなかった。そうしないで、ソチに出かけた。自分の人生最大の汚点を洗い流さなかったら、彼女の人生の意味がすべて失われると思えたのであろう。彼女の人生そのものが、革命と人間、政治と人間の相克の象徴のように思えてならない。