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0403 「砂上の楼閣」と「基本的人権」 笹井明子 2011/12/29 23:17:47
2011年も間もなく終わろうとしている。今年は、戦後築き上げられたとされる「先進国社会」とは、まさに「砂上の楼閣」だということが明確になった年だった。

地震・津波の被災者、原発事故の被害者の苦しさ、悲しさ、悔しさはもとより、これら直接的な被害に遭遇しなかった私たちも、帰宅困難、計画停電、日用品・水・食料品の欠如など、多大な不便と不安に晒される日常を体験し、「便利で快適な暮らし」は、簡単に崩壊することを思い知った。

そして、一見普段どおりの暮らしが戻っているように見える今もなお、放射能汚染が着実に広がり続け、米、野菜、果物、肉、乳製品、魚、、、と口にするもの全てに不安の影が落とされ、生産者の必死の努力の甲斐もなく「食の安全」も崩壊しているのが実情だ。

しかし、こうした日常生活に突如襲い掛かる災難=欠乏、不自由、不安、恐怖=のほとんどは、誰かの意志(例えば、東電・JR・大手スーパーなど、独占状態の企業)によってもたらされ、誰かの意志(例えば、政治家・官僚)によって拡大されるものであることも、この間の経緯で明白になった。それは取りも直さず、本来こうした人々の意志によって最小限度に押し止められるべき類のものだということである。

それにしても、こうした責任を負うべき政・官・財の人間の、この間の対応の酷さは、一体何なのだろうか。自国民の現在と未来の安全という基本すら守れずに、「経済大国」の幻想にしがみつき、崩れてしまった砂の上に再び危うい楼閣を築こうとする愚かさには、耐え難いものがある。

一方で、こうした人々の理解しがたい鈍感さに対し、幼い子供を持つ母親や漁業・農業に携わる人々など、日々の暮らしの重さを知る人たちが、今立ち上がり手を携えて、異議の申し立てをし始めている。権力の中枢にある人々にその声は届いていないかもしれないが、生命の本源に繋がる声は今後途絶えることなく、これからますます大きく強くなっていくだろう。

震災・津波・原発事故を目の当りにした2011年は、私にとっても苦しく、悲しく、悔しい年であったが、それと同時に「憲法」の無力を感じた年でもあった。しかし、心を静めて考えてみると、憲法11条、13条は次のように述べている。

憲法11条:「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」
憲法13条:「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

来年こそは、日本に暮らす一生活者として、「憲法」を大切に思う者として、今の状況に異議を唱える人たちの輪に加わり、「基本的人権」を尊重する政治実現に、一歩でも近づく年にしたいと思う。