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0381 Re: 護憲コラム 名無しの探偵 2011/08/02 11:00:26
「戦争と憲法」序説

憲法第9条の規定をどう捉えるかで「後に」学説等(憲法解釈は学者の専売特許ではない)が紛糾しているが、当時の市民はそうした神学的な教義
から自由であった。否むしろ戦争からの「被害」
を二度と受けたくないという直接的な欲求しか念頭になかったであろう。
こうした当事者という視点は9条解釈にとって重要であり、憲法制定が歴史となった現在からは原点としての重みは一層増している。
こうした視座は最近ねずまさし氏の論考から再び
示唆を受けた。
それによれば、9条の制度趣旨は端的にアメリカから見てそれまで敵国であった日本を武装解除したいという目的であったという。それも永久的に。
戦争末期は神風特攻隊の攻撃を繰り返し、戦争初期には真珠湾のアメリカ艦隊を急襲して撃沈させている。
こうしたクレイジーな戦術を繰り返す日本を理解しがたい敵国として冷静に見ていたアメリカの本音がそこにある。
日本が敵性言語として英米語を遇して戦争末期には教科書から削除した国家理性しか持ち合わせていない国と比べ、アメリカは戦争半ばからドナルド・キーン兵士等を日本語習得教育に従事させ、大学でネイティブアメリカンの言語を研究していた社会学者ルース・ベネディクト女史を派遣して日本軍捕虜を日本理解のための取材対象として調査するように命じたのである。
こうした手続きはアメリカがすでに戦争半ばで「日本占領」を予定し占領をアメリカ主導で遂行する目的からのものであった(「菊と刀」の前半部分に記載されている)。
そういう国であったからこそ、憲法9条の第一の
目的と制度趣旨が「日本の国家としての非武装」
にあり、第一も第二も武装解除が重要であり、占領目的となった「ポツダム宣言」にある「再民主化」の問題を平和裏に遂行するための憲法制定であった。
平和主義は武装解除の帰結にすぎず、逆ではない。つまり、「平和主義」を完成させるための憲法9条第一項(平和主義のための「戦争の放棄」)よりも憲法9条の第2項(「軍隊の不保持」)こそがアメリカにとっての重要な項目なのである。
アメリカにとって9条は上記のようなドライな規定であった。その証拠にアメリカは東アジアに紛争(朝鮮戦争)が起こると9条の宣言の舌のねも
乾かぬうちに日本に再び武装することを命じている(自衛隊の前身警察予備隊)。
そして、現在のアメリカの態度を考えればこの国が本当に「御都合主義」の国であることが明白になってくる。外交戦略として国際主義の名前を冠しているがその実体は条約締結国:同盟国を利用する対象としてしか見ていないのである。
こうした御都合主義のアメリカに対して日本政府は徹頭徹尾「追従主義」を採ってきた。この際立ったアンチシンメトリーが日米外交史の特徴であり、他の性格は皆無であった。主人が呼べばポチ
が答えるという比喩が的確な戯画として有効であった。
2、しかし、敗戦の当事者はそういう政府の解釈に追随する義務は全くない(国民主権の原則)。
もし、歴代の日本政府の代理人が考える追随主義が正解というならば日本は従属国家であり。「偽りの民主主義」ということになる。
ここから、アメリカ政府の9条武装解除論を批判して、第一項の平和主義のための戦争放棄が重要な規定であり、2項はその目的遂行の重要な手段であり、軍隊と軍備の不保持はこう解釈される。
ところで、憲法9条の解釈がこれで完結するわけではない。
憲法9条と憲法の他の規定(とりわけ基本的人権の宣言)は戦争から生まれた平和主義の憲法であったがそれは未来にも適用される憲法の拘束という解釈前提でもある。
憲法は過去と未来を貫く結節点に位置し、過去に
起源を持つ性格と未来をも拘束する性格を重曹的に(クロスオーバー)併せ持つものである。
それが日米政府の御都合主義から解き放たれたものであり、戦争放棄を宣言しておきながら「現実」(国際関係の現実という虚偽意識)的であるから再武装するのだというころころ変わる政策では憲法ではない。
したがって、安易な「憲法改正」は「憲法」違反である。

上記に展開してきた第二章の問題は「序論」という表題から次回に回し、途中であるが以上とする。