| 大阪府の府議会で君が代斉唱起立条例が制定された。橋下府知事が率いる平成維新の会が議会の多数を占め、今回の条例が制定された。
もちろん、大阪府のNPO団体が反対の意思を表明している。憲法に反する条例として(思想・良心の自由に対する基本的人権侵害)憲法訴訟を提起するということであろう。
ところが、この条例に対するマスコミの対応が気になった。平成維新の会が同じ日に制定した議員定数削減条例のニュースは野党の自民党の反対の 感想などをかなり時間をかけて放送していたが、 君が代起立条例の方は反対の団体の意見を放送しただけで識者の解説もなかった。 新聞の方は見ていないが、テレビの問題軽視の態度は明らかであろう。
橋下府知事の度重なる憲法敵対的な行動は目立つが石原都知事の君が代斉唱を教員に強制する通達 もあり、東京と大阪という巨大都市で憲法敵対的な条例や通達が立て続けに出現するとなると問題は深刻である。
以下において憲法の中核となる基本的人権の侵害と無視という現状を問題の分析を中心に論じたい。
問題点として大きくは二つが挙げられる。 第一にマスコミなどの思想・良心の自由の侵害事例に対する軽視の態度の憲法的な意味の問題がある。
第二に条例が憲法の規定を侵害することの憲法的な問題である。(憲法94条)
まず、前者の問題から検討しよう。 憲法といってもその規定自体だけでは機能するわけではない。国民諸階層が憲法が保障する基本的人権を日々の努力によって保持する行為が必要となると憲法自体によって要請されているのである
とりわけ基本的人権の中核となる表現の自由を生命とするプレス(報道機関、出版社など)の態度は憲法の保障する基本的人権の日常的な保持の努力が重要な行動規範(憲法の解釈としてその重要性は指摘することが大きな意味をもつ)として要請されている。なぜなら、プレスが憲法を護る基本的な使命を要請されていることは近代市民革命 以後の歴史的な構造を想起すれば当然であろう。
それは絶対王政下の政治的社会的な歴史を振り返れば明らかである。 そこでは表現の自由は剥奪されていて、人民は王政による「恣意的な法律・特に刑罰」によって生死の与奪を掌握されていた。日本の徳川政権下に おける生類哀れみの令という刑罰を例示すればより現実的である。
つまり、民主主義の政治はこのときに始まったのであり、プレスの自由(アメリカ憲法)はその書かれざる憲法保障であり、マスコミという形骸化したプレスであっても最後の砦は死守すべきなのである。 したがって表現の自由とその内面的な保障である 思想・良心の自由は車の両輪のごとき関係にあり、マスコミといえども死守しなければ憲法: 基本的人権の中心的な自由(精神的自由権)を軽んじたことになり、その未来は暗黒政治の到来を 招くこととなる。
今回の君が代斉唱起立条例は一部の市民以外には あまり問題視されていないようであるが、「しのびよるファシズム」への危険な曲がり角と言っても過言ではない。
私、名無しの探偵はこの条例の制定ニュースを聞いたとき、徳川政権の「踏み絵」を思い出したのである。反対表明をしていた団体の代表も「なんでこんな憲法違反の条例が」と言っていたが同じ気持ちだったのであろう。
さて、問題を立体的に考察するに、憲法の基本的人権の構造として忘れてならないのはそれが「国家による侵害に対する保障である」という構造である。 近代自民革命の大きな成果がここにある。
基本的人権は国家によって侵害されることであり、憲法(典型としてフランス人権宣言)はこの国家による侵害行為を排除することが核心なのである。
プレスを中心に国民諸階層としての市民が今回の ような条例を憲法違反として憲法訴訟を提起しなければ一体誰が憲法:基本的人権を護るというのか。
第二に条例制定権の限界の問題であるが、憲法によれば地方議会は「法律の範囲内で」条例を定めることができるとされるが、今回のような条例は憲法に反してはならないという縛りがあり、君が代起立条例は思想・良心の自由を明らかに侵害しており、違憲無効な条例である。
この条例は憲法で規定される条例制定権の範囲を逸脱しているのである。
以上。
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