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0371 価値を決めるのは科学者ではない 鈴木建三 2011/05/30 02:25:45
最近東日本大震災で日本中が振り回されている。

確かにこの災害は、少なくとも戦後六十年、非
常に大雑把に言えば、一応平和で右肩上がりだった日本人にとって想像もできなかった大事件である。小生のような戦中派生き残りのごく少数の老人以外の人にとっては、一生に一度の大事件であろう。

しかし、自然の猛威というものは、人間という実はせいぜい百年ぐらいしかこの世に存在しないきわめて弱い生物よりは、ずっと強い力を持つものだということを示してくれたのであり、人間同士のつまらない生存競争ばかりに熱中する生き方に警告を与えてくれているような気がする。

私はいわゆる科学による進歩という考えを全面的に否定するつもりはないが、科学万能というか、それが世界の問題のすべてを解決するものだとは思わない。
そういった幻想が非常に危険なことを如実に示したのが、福島原発の今度の、いわゆる科学者、その道の専門家などがどうしようもない事故である。

もちろん東電その他のその筋の連中がこの施設の安全神話を自分たちも信じてしまって、こういった事故を予防するのに不注意だったと思われる点は、施設の造り方にも多々あり、事故発生後もさまざまな手落ちがあったことも事実であろう。

しかし私は、安全確保のためにこうしておくべきだったとか、事故にたいしてこうすべきだったという議論があまり強調されるのはいいことだとは思わない。そういった議論は逆に、下手をすればそういった対策をすれば安全な原発が出来るような錯覚を作り出す危険があるからである。
機械というものは必ず壊れるものであり、その上原発は、壊れたら人間にとって危険極まりない有害物質を発散質し続けるものだということを、もっと深刻に受け止めるべきだと私は考えている。

津波でなくても、こういった機械を壊すものはいくらでもあるし、それは自然災害だけでなく人間そのものがそういうことをやりかねない生物なのである。人間は日常正気だと思われていても、何をやるかわからない生物であることは、小さな事件では秋葉原事件などがあり、大きなことではアメリカのイラク侵略、アフガン攻撃など枚挙に暇がない。

機械は壊れないものは存在しないし、壊れたらひじょうに危険な物質を発散し続けて止められない機械は作るべきではないと私は考える。そういった機械が人間にとってどんなに便利であってもである。