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0365 「日本再生」の理念こそ何より重要 流水 2011/04/18 10:22:23
昭和40年代だったと記憶しているが、「展望」に掲載された論文に大要以下のような事が書かれていた。「人間の想像力は、静かな平和の時に戦争の足音を聞き、非常時の時に平和な日常を考える事をいう」(吉本隆明)

わたしは、日本再生の理念には、この想像力の有無が一番重要だと考えている。今回の地震規模や原発事故に対して、政府関係者や専門家の間から「想定外」という言葉が乱発されているが、彼らの想像力の貧しさを自ら告白しているようなものである。
今回の復興計画には、このような想像力の欠如した日本の支配層の伝統的理念の大転換がなければならない。

わたしは、日本の支配層の伝統的理念は、「城下町思考」だと考えている。
「城下町思考」とは以下のような思考を言う。
通常、「城」の中には、支配層が住み、「城の外」には庶民が住んでいる。「城の中」では、権謀術数が渦巻く権力闘争が繰り広げられているが、「城の外」の住人たちにはほとんど関係がない。しかし、戦争がはじまり、「城攻め」が始まると、支配層は城の中にこもり、
庶民は城外に取り残される。時には、敵方に利用される事を恐れて、町を焼き払う事もあった。

庶民は、平和時には、税金を払い、支配層から出される規則に従い、無理な命令にも、「泣く子と地頭には勝てぬ」と我慢してやり過ごしながら、結局はこのような支配層の政治を容認してきた。まさかのときには、護ってくれる、という淡い期待を抱きながら。
しかし、それは幻想であり、結局支配層は「お城」にこもり、庶民は塗炭の苦しみを味わねばならない、というのが相場だった。イラク戦争前後に流行った言葉で言えば、それこそ、自分の命も自分の生活も全て「自己責任」で守らねばならなかった。

明治以降も、「民は寄らしむべし、知らしむべからず」の「城下町思考」は継続し、太平洋戦争終了時まで続いた。

戦後は民主主義憲法が制定され、一見民主的支配が行われてきたかに見えるが、それは外見だけであり、官僚たちの間では「城下町思考」は継続されていた。GHQの改革でも、官僚制度の改革は中途半端に終わり、官僚支配の政治は継続されてきた。特に、戦後政治の大半を担った自民党は、官僚出身者の議員を数多く抱え、官僚たちの意向を色濃く反映した政治を行った。また、同時に経済界の要望もうまく政治に反映させ、「政治献金」と「利権配分」を通じて持ちつ持たれつの支配を行ってきた。官僚たちは官僚たちで自民党政治家の意向を巧妙に取り入れ、政治家をうまく使いながら、自らの立場を強化した。経済界は経済界で、政治家と言う人種を「経済一流、政治三流」と軽蔑しながら、自らの利益確保のために利用してきた。

今回の東日本大震災、特に福島原発事故で、この構図が誰の目にもはっきり見えてきた。「福島原発事故は、戦後日本支配体制の象徴」でも指摘したように、原子力平和利用政策それ自体が、米ソ冷戦体制を勝ち抜くための米国の世界戦略の一環であり、それを受け入れ、推進してきた正力松太郎を象徴とするメデイア、中曽根康弘を代表とする戦前型政治体制の復活を目的とする保守政治家、安い電力を活用して経済的利益を享受しようとする経済界の要望などの思惑が一致して推進されてきた。原子力発電所推進政策は、「政・官・業・メデイア・外国勢力」が一体化した日本支配体制そのものだったのである。

この支配体制のありようが、「城下町思考」そのものだったと言う事が、今回の東電・原子力保安院・原子力安全委員会・経済産業省・政府の事故対応に如実に示されている。情報の隠蔽・放射能汚染地域住民に対する配慮の無さ・東電幹部のあまりの不誠実さ・メデイアの大本営発表。どれ一つとっても、「城の中に籠城」し、自らは安全地帯に身を置いて、焼き払われる城下町の住民たちの苦しみを冷然と見下す支配層の非人間的感性を物語っている。

この感性それ自体の変革を目指さなくて、何の震災復興計画だろうか。「政権交代」の思想的意味は、ここにあった。民主党は、今こそ「政権交代」の原点に返らなければならない。

では、「城下町思考」をどのような形に転換したら良いのだろうか。
わたしたちは、日本歴史の中に重要なヒントを持っている。「応仁の乱」以降、戦国時代に突入した支配層の争いの中で、庶民たちは翻弄され続けた。その中で、農民たちは、百姓一揆をさらに発展させた国一揆をおこし、一向宗を中心に形成した寺内町を形成した。商人たちは堺が代表する「自治都市」を形成した。ここを基点として彼らはきわめてグローバルな視点を持って海外に雄飛し、貿易で莫大な収益を挙げた。

つまり、支配層の「城下町思考」に対置する「自立・自治」の思想を形成していたのである。特に寺内町は、御堂(一向宗の寺)を中心に形成され、その中では誰もが平等に発言でき、住人たちの互選で選ばれた指導者たちによって合議制で運営されていた。だから、この町が攻められ、滅亡の危機にさらされると、誰もが運命共同体としてその危機に立ち向かう覚悟を持っていた。指導者の運命・町の運命は即住民の運命だった。10年以上織田信長・豊臣秀吉を悩ました石山本願寺(現在の大阪城)の戦いは、自治都市住民たちの自立の思想そのものの表現だったと言える。その意味では、日本の自治都市や寺内町は、西欧・中国などに数多くみられる都市国家に最も近い都市だったのである。

西欧の指導者とは、都市国家の塀の上に立って、町を守る戦いの先頭に立つ人の事をいう。それが指導者のノブレス・オブリージュ(直訳すると高貴さは義務を強制する)だった。・・・「ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない社会の心理である。それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見なされる。
法的な義務ではないため、これを為さなかった事による法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けることはしばしばである。・・ウイキペデイア

日本の指導者層(支配層)が、城下町思考から脱する事が出来なかったのは、日本の都市と大陸の都市国家の形成の違いに起因するためだと思われる。だから、日本の支配層の統治の仕方は、西欧各国の統治の仕方と微妙に異なっている。

大陸の都市国家は、常に他国・多人種からの侵略にさらされる。そのため、敵に対する仕打ちは冷酷で容赦がない。支配する民衆に対する統治も同様である。だから、支配される民衆の側も、独裁的で冷酷な統治に対しては革命を持って応える。資本主義が発展するにつれて、独裁的でなくても、厳格な階級社会が形成されてきた。

だから、民衆が権力を取れば、支配者は容赦な処刑される。フランス革命の断頭台を想起すれば、敵味方(階級)の峻別の厳しさが理解できる。だから、支配層(指導層)たちは、民衆の怒りを恐れる。如何にして支配するかを考える。これが、ノブレス・オブリージュの根底にある。英国の貴族層でいえば、これがゼントルマン・アイデイールと言う事になる。

日本の支配のありようは、もう少し微温的であり、あいまいである。これは、江戸時代に形成された身分制度に起因していると考えられる。織田信長が長島一揆(一向宗)を弾圧した際の大殺戮が石山本願寺の必死の抵抗を招いたという反省が、江戸時代の身分制度と宗教政策に反映されている。

これが、敵・味方をあまり峻別せず、なんとなくなし崩しにうやむやに物事を処理する日本的腹芸として定着したのであろう。例えば、武力によって完全に徳川幕藩体制の息の根を止めようとした薩長連合軍に対して江戸城無血開城で応戦した勝海舟などは、その最たるものだろう。

薩長諸藩の武力討幕路線は、「城下町思考」に基づく権力争奪。いわば、世界基準の革命路線だった。これに対置した勝海舟の発想は、革命による庶民の犠牲を最小限にとどめ、自らも属している「城下町思考」に依存した権力者(幕府)を排除する発想。ある意味、「城下町思考」と「寺内町思考」の中間の発想と言える。歴史上の人物で言えば、織田信長型ではなく豊臣秀吉型に近い。日本人には、意外とこの発想の方が受け入れやすい。だから、勝海舟は明治時代でも大きな影響力を残し、徳川幕府の官僚たちは、明治維新政府でも活躍した。

この支配層(勝海舟)のありようをもう少し俯瞰的に見るならば、「城下町思考」の欠点を「寺内町思考」を取り入れる事によって、落とし所を見つけた、とでも言うべきだろう。これは、勝だからできた、ともいえる。他の幕府官僚たちは、「城下町思考」の呪縛から解かれていないため、手をこまねいて江戸城落城を待つ以外の発想ができなかったのであろう。

この勝の柔軟な思考法は、もう少し高く評価されてしかるべきだろう。国内的には、「城下町思考」のくびきから脱し、結果、国際的には諸外国の「植民地思考」の毒牙から日本を守った。

菅直人退陣論でも触れたが、彼は国内的には「城下町思考」の呪縛から脱する事ができず、国際的には米国をはじめとする各国の「植民地的思考」をはねのける方策を持つことができない。

この最大の要因は、彼が典型的なナルシスト型人間である事に求められる。新陰流の極意にある「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という発想を取る事ができない。全ての発想が、「自分にとって得か損か」でしか浮かばない。だから、危機になればなるほど小手先のタクテイスに走る。小手先のタクテイスだから、もう少しましなタクテイスを見つければ、簡単に前の方法を捨て去る。前の方法と後に選択した方法との論理的整合性はない。本当の意味での自分がない証拠である。勝海舟語録にある「褒貶は他に存す。我にあらず、我に関せず」という悟りにも似た強さなど望むべくもない。

実は、今回の大震災の復興に求められるのは、西欧流階級社会に転化する「都市国家」流発想ではなく、日本流寺内町の各成員の自立した意識に基づく「運命共同体」意識をどのように保障し、どのように形成できる環境を整備できるか、というコペルニクス的発想の転換である。

国民には意外に認知されていないが、戦前・戦後日本の指導層(政・官・業・学・メデイア・外国資本)の発想は、ノブレス・オブリージュの欠落した西欧型階級社会に転化した「都市国家」発想に他ならなかった。

明治の近代国家草創期の支配層の間には、国家意識に転化した武士道意識が色濃く残っていた。それが日本を極東の小国からアジア最初の近代国家として結実させる原動力になった。司馬遼太郎流にいうならば、「坂の上の雲」が信じられた時代と言う事になる。しかし、社会・軍備の近代化とナショナリズムがないまぜになった日本独自の近代化は、太平洋戦争の敗戦で挫折する。

戦後日本は、国家経営の方向性を経済に限定し、奇跡の復興を遂げた。この原動力になったのが、民主化と言う名前のアメリカ化だった。アメリカにはアメリカなりの国家戦略があり、戦前型日本の復活を許さない方向性で日本統治をおこなった。

このアメリカ型統治の先兵が、官僚制度とメデイア支配だった。戦後の自民党総理が、就任後最初に外国訪問する国が米国だったと言う事が戦後日本のありようを象徴している。

まるで、江戸時代の参勤交代を想起させる米国訪問こそが、日本の世界の中での立ち位置を示していた。日本の真の意味での自立を志向する政治家・総理大臣は、田中角栄が象徴するように「米国の虎の尾を踏んだ」事になり、ことごとく短命に終わった。この米国の意向の手足になって活躍したのが、東京地検特捜部であり、大手メデイアだった。国民にはほとんど見えない「見えざる手」によって、日本の戦後支配体制が継続してきたといってよい。

しかし、米国流資本主義とは別に戦後日本資本主義は、「終身雇用制」に象徴される独特の経営方法によって発展してきた。江戸時代の近江商人の【他人によし、自分によし、社会によし】という商売倫理が日本資本主義倫理の根底に色濃く流れていた。

堺屋太一の指摘のように、戦後社会の人々の帰属意識が、【地縁】【血縁】から【社縁】に移り、会社に対する高い忠誠心が、戦後日本の高度成長経済を支えたのである。

この日本経済の成長は、当然ながら米国資本主義の足元を揺るがした。これの対抗策が、グローバルスタンダードというわけである。IMFや世界銀行を支配下に置いた米国流スタンダードをグローバルスタンダードとして日本流資本主義の変質を強要し、これを受け入れた日本資本主義は急速に変化し、「自由競争」と言う名前の弱肉強食の新自由主義的資本主義に変質した。米国のいう新自由主義的資本主義とは、資本主義草創期型の階級社会への変質を意味していた。これが特に顕著になったのが、小泉政権樹立と竹中平蔵の改革である。

菅内閣も基本的にこの系譜に位置する。日本流に言えば、典型的「城下町」思考だと見られる。だから、日本の本当の意味での自立を志向し、「寺内町」的発想と東北人的【共生】【共助】の思考を色濃く持つ小沢一郎とは決定的に相いれない。民主党マニュフェストに色濃く流れる「寺内町」的思考が邪魔で仕方がない。このように見れば、民主党の党内抗争は、戦後日本の根底に流れてきた路線対立なのだと理解できる。

わたしが、今回の大震災復興について、理念が何より大事だと考えるのは、この理由による。この復興理念が、21世紀日本の歩み方を決定すると考えている。この為には、菅内閣の退陣が前提条件になる。管内閣のような典型的「城下町思考」で復興が行われたら、それこそ本当に日本は沈没する。

冒頭に書いた「平和時に戦争の足音を感じ、非常時に静かな平和な日常を考える」想像力が国民一人一人にとって何より大切と考えるのは、この想像力こそが、一人一人の自立(政治的にも)を促し、この国民の自立意識こそが政治を変革するからである。今回の復興計画は、東日本の人々のためだけにあるのではない。日本国民一人一人の運命と日本の運命を決定するものである。

われわれは、日本と言う運命共同体の成員として生まれてきたし、死ななければならない。同じ運命共同体の一員として生きるのなら、自分が納得して生きたいと願うのが普通である。自分が納得し、これならば自らの運命を預けてもよいと納得した政府・指導者とともに運命をともにしたい。

わたしたちは、菅直人首相・菅政権に自らの運命を預ける事ができるのか、という視点から、真剣にこの問題を考えなければならない。少なくとも、原発問題を論議対象から外したり、会議の冒頭で「復興税」をぶち上げるような政権や復興会議に自らの運命を預ける事はできない。