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0354 Re: 護憲コラム 名無しの探偵 2011/02/18 19:43:09
日本の国民国家の形成における問題点

1、20年前あたりから西欧国家の国民国家形成に合わせて日本の近代史においても国民国家形成の歴史を当然のこととして歴史記述するようになっている。
たとえば、岩波新書シリーズ日本近現代史の「民権と憲法」などでは国民国家形成の始点を遅くとも自由民権期(明治7年から27年ころ)に求めている。
確かにこの見解には根拠があるが、私は最近になって疑問に思うようになった。
なぜなら、自由民権運動の目標だった民選議院設立運動が達成されてからは藩閥政府によって弾圧され運動は終焉に向かっていった。そして明治憲法が1889年に成立すると明治憲法には国民は
「臣民」とされ実際にも国民の権利は大幅に制限されたものであった。
なによりも議会に立法権が存在したのかも疑わしい。第5条で「天皇は帝国議会の協賛を以って立法権を行う」とされ帝国議会は天皇の権限を補助する機関にすぎなかったのである。
こうしたことから(国民である「臣民」の権利は
制限され議会も権力を持っていない)立憲主義とはいえ外見的なものにすぎないというのが通説である。
立憲主義が外見的なものにすぎないのでは絶対主義(「朕は国家なり」で有名なブルボン王朝)と変わらないのである。

現在では上記の「民権と憲法」(牧原憲夫著)のように自由民権期に国民国家が誕生したとする見解が有力であるが、確かに自由民権運動の時期に国民が下からの改革を行ってその運動過程で幾つかの私擬憲法を作ったのである。代表的なものに五日市憲法(千葉卓三郎起草)などがある。
しかし、為政者はこれらの動きを封じ込め国民国家の条件である立憲主義や民衆の「国民化」を欽定憲法の制定によって封じ込めてしまったのではないだろうか。
しかも、為政者は四民平等と言いながらも新平民
と呼ばれた部落民を差別することをやめなかったし、平民の上には華族制度を置いたのである。

2、中村政則氏の著書で初めて知ったのは明治政府の華族制度の実態である。中村氏の調査によれば大名であった人たちを県知事に据えたりしていることは周知であるが、彼ら華族に膨大な資産を付与していることである。

明治初期の長者番付(こういうものがあった)では10位以内に華族の多くが入っている。
彼らは旧武士階級でありながらたとえば東京の全面積の中にに広大な土地を所有していたりしていた。三菱財閥の創始者岩崎弥太郎も広大な土地を所有していたが、こうしたブルジョアと華族の多くが肩を並べていたのである。
それに華族の私有地は世襲制であり、民法上も華族が土地を失わないように例外規定などを置いている(華族令による例外規定)。
上は天皇の藩屏としての華族制度、下は新平民と
名付けられた部落民制度を温存していた。
旧武士階級は大名など(明治維新に功績のあった
武士も華族になった)を除きみな失業したのに華族とされた武士上層は特別の扱いを受けたのである。伯爵や公爵として。
明治憲法はこうした実態に合わせて国民とせず「臣民」という法的地位を法文化したのではないのか。
国民国家という西欧近代の国家モデルを機械的に
当てはめる前に国民諸階層の実態を分析する歴史の作業が不可欠なのである。

3、大分前に「東京の下層社会」(紀田順一郎著)を紹介したことがあった。その中で下層階級の人々の職業が実に多様性に富んでいたことに驚いた(桜田文吾という人の著書によるもの)。現代のように工場もなく株式会社もほとんどない時代状況では上層や中間層が大地主や商人であり、
都市下層が廃品回収などを代表とする雑業というのもうなずける。
そしてこの「雑業層」という人々こそ日本が本格的に国民国家という実体を持つことになる明治末期から大正年間にかけて都市の騒擾を引き起こす
運動主体に踊り出てくるのである。
はじめに登場した都市騒擾が日露戦争の講和条約に反対して「日比谷焼き討ち事件」と呼ばれる騒擾事件である。政府は軍隊までも動因する戒厳令を敷いた。
次に雑業層が歴史の主役に躍り出たのが「米騒動」と呼ばれた都市騒擾であった。
大正デモクラシーと呼ばれたこの時代に運動の主体になったのが都市の中間層であったり、都市の下層でもあった。
このように国民国家形成を考えるとき政府や支配階級を震撼させる民衆のエネルギーこそがかれらにとって無視できないものに成長していたことを重視すべきであり、上昇しようにも働くべき会社もなく立身出世を夢見る教育機関もない明治初年に国民国家を夢想する歴史家は実態を見ていないのである。
日本において真に国民国家と呼べる時代は明治末期から大正にかけての時期であり、それは偶然にか必然というべきか20世紀という世界史の時間に歩調を合わせたものというべきなのである。

以上。