| 強制起訴は、起訴ではない もとい、有罪では固よりない。 また、そもそも、一般の(検察官による)起訴も推定無罪でり、特に有罪と裁判所が判決で認める場合を除き、無罪である。 かつてあった『有罪率99%』なんていう、世界に類を見ない実績などは、大阪・特捜のような体質を広く共有した(証拠の軽視・隠蔽など)=調書重視を前提とした上げ底のものであったことを弁えるべきであろう。起訴されたら失職などの慣行?ありえない話では。 ところが、今般の強制起訴については、検察官自身が、公正に判断して、有罪を勝ち得ないとした挙句のものだ。同じである筈は、そもそもない。むしろ、裁判の実際では、無罪となる蓋然性のほうが高い、ともされる。 国会や東京第5検察審査会の多数意見、或いはマスゴミ紹介するところの世論調査の示す多数は、政治的に「小沢一郎氏」を葬りたいとの思惑が先走っているように私には思われる。 この検察審査会の強制起訴制度は、裁判員裁判導入と時を同じにして始められたもの。その当時から、こうした政治利用を予定していたものか、想定外のものか、国会は調査して明らかにすべきであろう。 尤も、菅政権自体が、『反小沢』とやらで政治利用している状況では、今は、望めないことではあろうが。 司法制度の政治利用は、断然反対である。 東京第5検察審査会の判断の下りにこのようなものがあるらしい。 =議決では「有罪の可能性があるのに、検察官だけの判断で有罪になる高度の見込みがないと思って起訴しないのは不当」 これが、「疑わしきは罰せず」の原則を乗り越えているのだとすれば、刑法の大原則、罪刑法定主義等を蔑ろにするものであって、個人の人権尊重に有害無益なものといわざるを得ない。 裁判員裁判導入に当たっても、裁判に市民感覚を取り入れるなどという謳い文句があったが、裁判所等が主導したこれら改正が、日本国憲法やその下の法律制度(法の支配)を乗り越える、端的に言えば、破るものであって良いなどとは、考えてもいないだろうが、まさかとは思うが、どうなんだろう? 検察官調書の「特信性」の誤り、調書裁判、人質司法等々、早々に改めるべきであろう。 検察検討会議なども、そうした点まで踏み込んで、人権保障を高らかにうたう日本国憲法にふさわしい検察や裁判所に脱皮してもらいたいものと思う。国会の責任は重大だ。政敵潰しに躍起になるその姿は、無様だ。歴史と国民がいづれ明らかにすることであろうが。
参考) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1148181341 「起訴」と「強制起訴」の違いは何ですか。 - Yahoo!知恵袋 http://www.kashika-suishin.com/?page_id=4 取調べの可視化ホームページ » 調書裁判について >日本の刑事裁判は「調書裁判」であると言われています。… http://blogs.yahoo.co.jp/bmb2mbf413/35782810.html 郷原信朗/特捜“正義神話”の崩壊 証拠改ざんで主任検事逮捕 「村木裁判」で露呈した特捜の終わりの始まり >否定された検察官調書の「特信性」
http://seiji-db.com/sangiin/situmon/168-114 証拠の標目及び特信情況に関する質問主意書 - 峰崎直樹(参議院) >>参議院議員峰崎直樹君提出証拠の標目及び特信情況に関する質問に対する答弁書一について
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