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0341 沖縄の旅 笹井明子 2010/11/15-13:34:01
今月始め、4泊5日の沖縄の旅をしてきました。少し前に普天間基地移設について話していた時に、ある新聞記者さんが「実際に行って見なくては分からないことがある」と言うのを聞いて、以来、沖縄の現状を自分の目で、耳で、確かめたいという思いを抱き続けてきましたが、今回それがやっと実現しました。

まずは、代表的な観光コース、首里城、旧海軍司令部壕、ひめゆりの塔、南部戦跡巡りに参加。観光とはいえ、こうした場所を訪れると、古くは明治政府による琉球処分、近年の沖縄地上戦、米軍の占領と、ずっと続いてきた苦しみが、胸に迫ってきます。観光ガイドさんは、「戦後アメリカが住民たちを収容所に強制移住させて、その間に良い場所を全部とって米軍基地を作ってしまいました。だから当時沖縄の人は“アメリカ”と言わずに“USA”と言っていたんですよ。USA・・ゆだんも すきも ありゃしない。」というエピソードを、笑いを交えて話してくれました。

次に今回の目的、沖縄の今の現実を見ようと、辺野古海岸や普天間・嘉手納基地に行ってみました。早朝に訪れた辺野古の海は、鄙びた村の先に広がり、日の光を受けて静かに光っていました。海岸を少し歩いてみると、砂浜の途中に鉄条網が張られ、内側に「米国海兵隊施設・許可無く立ち入った者は日本国の法令により処罰される」と書かれた看板が立ち、その鉄条網に平和を願う黄色いリボンや基地反対を訴える布が、沢山結びつけられていました。

その後訪れた普天間基地は大学や住宅地に隣接しています。周辺は軍用機やヘリコプターのエンジン音が地鳴りのように響いていますが、森のような木々に囲まれて、中を覗い見ることはできません。基地から少し離れた「よくテレビに出てくる撮影ポイント」に行くと、高台の公園に展望台があって、そこからは住宅地と海に面した基地の滑走路が見えます。その展望台には「宜野湾市は普天間飛行場を一日も早く返還させ、夢のあるまちづくりに取り組みます」という宣言を書いたパネルが展示されていました。

普天間を後にし、延々と続く米軍施設を右に、一般の家や店舗を左に見ながら車を走らせると、嘉手納飛行場に着きます。こちらは道の駅の4階から基地を見渡すことができて、大きなカメラを持った人が数人いましたが、飛行機の離発着はなく広大な基地はひっそり静まり返っていました。

基地周辺は、どこも道は素晴らしく整備されているのに、人の気配・温もりが感じられません。基地の周囲には鉄条網が張り巡らされ、そこに「合衆国空軍施設−軍用犬により巡視される」というような「警告」が貼られています。こうした鉄条網の内側の米軍兵士たちと外側の沖縄住民の間に横たわる互いの不信と拒絶を、町の沈黙が何より雄弁に物語っているようでした。

そして、もうひとつの沖縄の顔、美ら海水族館や、那覇の国際通りや公設市場などの観光地に戻ってみれば、そこには青い空や海が輝き、楽しそうな人々の笑顔がいっぱいで、明るさに満ちています。夜、地元の人たちに混じって、三線と島唄を聞きながら泡盛を傾ければ、人々の温かさに包まれて、心地よい時が流れていきます。

さて、菅総理はAPEC出席のために訪れたオバマ大統領との13日の会談で、日米関係の強固さをアッピールし、日本防衛に米軍のプレゼンスは不可欠との認識を強調し、互いに笑顔で握手をしてみせました。尖閣諸島沖・中国漁船衝突の処理、メドベージェフ大統領の国後島訪問への対応等、外交能力に疑問符が付けられ続けた菅政権からすれば、アメリカとの協調を示すことができて、ひとまずほっとしているのかもしれません。

しかし、APECを前に始まった沖縄県知事選挙に於いて、民主党は候補者の推薦を見合わせたばかりか、党員の個別の応援をも禁じるなど、「沖縄住民の意志」を腫れ物扱いにして、触れることを避け続けています。長年にわたり基地を押し付けられ、「米軍のプレゼンス」は自分達を護るためではないことを、身を持って感じてきた住民の気持ちは、今もって置き去りにされたままです。

「なんくるないさ〜(なんとかなるさ)。」言葉に尽くせない苦難の歴史を歩み、今も政治の矛盾を圧倒的に押し付けられている沖縄の人たちは、なぜか優しく逞しく、私たちに安心感を与え、励ましてさえくれます。

けれど、これ以上その優しさに甘えて、沖縄の人たちの本物の怒りを無視し、踏みにじることは許されません。菅政権を始めとする日本の政治家は、是非とも沖縄の人々に真摯に向き合い、基地問題の真の解決を図ってもらいたいと、心から願わずにはいられません。そして、私たち自身も、「普天間問題は決着済み」というような風潮に流されること無く、沖縄の人たちの心に寄り添って、しっかりと成り行きを見つめていきたい、との思いを深めた、沖縄の旅でした。