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0328 人権保障の倒錯、申請主義と縦割り行政による転倒 蔵龍隠士 2010/09/06-04:30:27
 つまり、国家の責務・人権保障(国民の権利・自由の保障)の逆転:国家機関は、「申請がなければ、何もしなくてよい?」かの如き安陪コベ、理不尽。
更に、これを強めたのが、縦割り行政。国や自治体は、本来が(一本)一体の筈なのに、細分化して、盥回し(窓口が違う)或いは、管轄が違うので、申請してもらわないと手続きできないと、前手続きの行政側の過失まで、責任をとろうとしない、無責任が蔓延…。
 公務員への減点主義による管理(昇進乃至処遇)もこれを強める。前がかりに仕事をしてアラを探されるより、前例大事と、前例主義に則り、例のない仕事、判断は出来るだけ回避するというような態度・公務員像。
 考えてみれば、この『待ちの姿勢』(上命下達)は、日本国憲法成立以前からの、官僚制の伝統に根ざしたものでもあるのだろう。逆に言えば、戦前からの官僚制を維持し、利用して統治しようと考えた時から、人権保障は、逆立ちしたのではなかろうか。丸で、申請を待って処理をすれば良い、しかも、古い永田町の作る法律(政治とカネ、もそう)を待って、上命下達的に、対応すれば良いと。
戦前からの支配層、指導者にとっても、都合が良かったのではないか。自分の自由裁量・利権(既得権)を保持するために。
 堪らないのは、本来は、人権保障(権利・自由を保障)された国民、個人の筈なのだが、戦後永いこと、今日に至るまで、政権交代もなかったので、これに気づかされることもないで、来た!?

 111才の生死不明が伝えられた時、驚きが走った。それはいいとしよう。その後、そうした例は続き、どうやら「とりどりに不幸であった」らしいと判った。この時、本来は、国の責務に思いを致すべき所、なんと警察的に「年金の不正受給」に、国民の目(関心)を転化してしまった。つまり、個人の不心得者探しに、関心を集めた。
 私は、とりどりに不幸となった個人の残念・無念が気に懸かる。それは、幼児・嬰児にも降りかかる家庭内暴力・いじめとも、連鎖する。今の家庭や家族、或いは親族に、その各員を保護する能力が、十分ではないという事実である。
 国家の出番(警察的なそれではなく、人権保障第一の)は、待ったなしではないのか。逃げおおせないのではないのか。と思う。戦前のような家族制度も、隣組制度も今はなく、その土壌も失われ、今はない。また、その回復は、個人の尊重と相容れない。
 以前、ワーキングプアの問題で、イギリスの政策(You Tube:動画=就職支援員(9000人:就職まで支援)、社会的企業(55000社)、幼児子供への直接支援(家庭だけに任せられない)=年間予算15兆円)をみたことがあるが、そこには、若者の就職支援員9000人が、街場を徘徊し、失業中の若者を探し、就職まで支援する姿があった。
 そう、国家が自らその職責を果たすため、失業者や生活に不自由する者を、探索し、保障しようとする挙に出ても良い筈なのだ。否、むしろ日本国憲法の本来ではないかと思う。経済的に、日本が世界のNO,1になり、今仮にNO.3に、なっていたとしても、当然体現していて良い課題だ。
 唯、戦前からの指導的魂が、これを妨げ、われらにも刷り込まれているが故に、本来に気づくのが遅れ、回復を見ないままになっているのではないか。

 戦前からの魂、その連想から言えば、今話題の、『政治とカネ』の問題もそうである。未だに、根絶されそうに見えない。
 小沢一郎氏が、その問題で失脚すれば、政治がクリーンになるかの如く、言い募る対立候補もいるが、果たしてそうだろうか。
 賄賂罪も、(脱法的重大事件が発覚する度)度々改正され、政治資金規正法も同様に、重大事件を契機に、度々改正されてきた。政治が、抜け道を残しながら。
 この永田町の常套手段、今また同じ轍を踏み、国民を騙し、政治とカネ問題を先送りしようとしている。…対立候補も、すっかり古い永田町の住人となったようだ。しかも、それを隠そうとしている(自覚がないのか)。
 残念だが、仕方がない。国民にも責任がある。そんな政治家を育てた、支援したという。
 なんと、人権に仇名す、古い政治家が、永田町には多いことか。山は、そこにある。われ等の内にもあるかもしれないが…山は、目標は、そこだ。