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0313 戦後改革と憲法の誕生 名無しの探偵 2010/05/27-05:00:13
最近の議論で戦後改革の枠組みを根本的に塗り替えようとする見解が出てきた。山之内靖教授の言う総力戦体制論と
戦後の改革という議論である。

この議論はこれまでの通説が日本の戦後改革は敗戦を期に占領軍の主導によって行われたという至極当たり前の説明であったが、山之内説はそうした戦後改革の大半は戦時中に出てきたものであり、総力戦体制の確立の必要上改革が
行われたという。

(参考文献として安丸良夫氏の文章を引用しておく。それによると、「この見解は、総力戦体制のもとで立案され実行に移された経済改革・福祉政策・教育改革などが、しばしばその主な担い手も含めて戦後の諸改革へと継承されたことを強調するもので、総力戦のための経済的人的資源の
動因方式と戦後日本の資本主義体制のもとでの統合との間に連続性があることを明らかにした点では説得力があったと考える(山之内、1995)。」としている。ー一橋大学国際シンポジュウム『20世紀の夢と現実』所収の「20世紀ー日本の経験」P18)

しかし私には山之内説には大きな落とし穴があると思われる。

以下、日本国憲法の制定を戦後改革の着地点と見ることから山之内説などの議論に反証を挙げていく。
確かに総力戦体制の確立にとって戦前のような超格差社会
つまり天皇制の元での地主制度に基づく資本主義体制のままでは総力戦体制を早期に確立させることは不可能であった。したがって昭和19年に国民の年金制度などが形成されたりしたのである。

こうした戦時中の「平等化社会」の改革による実現などを
山之内説は戦後改革への布石と観るがしかしGHQによる戦後改革の大きな柱である「農地解放」は戦時中も戦後も日本の指導者からは絶対に近く改革案として出てこないものであった。
確かに、農地解放によって農民の保守化を招き自民党一党支配の継続というマイナス面は大きかったが戦前の地主制度をもし戦後も温存していたならば日本の資本主義の発展も自由な経済体制も確立されなかったはずである。
そして格差社会が固定化されていたのである。

また、憲法の大きな支柱である国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三本柱が戦後改革の着地点として確立が遅れたのであれば日本の社会も大分違ったものになっていたであろう。
この三本柱が存在していても政治的に自民党による一党支配が長く継続していたし、占領軍による国家神道解体指令
と憲法の政教分離原則規定の設立以後も靖国神社への政治家の公式参拝が行われてきた。

そして、基本的人権の大きな制度枠組みの一つである労働基本権の軽視である派遣労働の規制緩和は労働者の未来を
奪ったに等しいのである。

こうした基本的な制度などを俯瞰しただけでも総力戦体制と戦後改革との間に連続性があるとは肯定できにくいのである。
戦後改革の歴史的意味が風化させられてきている今日、憲法の制定と誕生とが戦後改革という一連の歴史的流れの大きな成果として位置づけられ、安易な憲法改正を許さないという戦後の初心というか原点を見つめなおすことが今重要なことなのでないかと思われる。
                     以上。