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0295 正月の終わりに 百山 2010/01/25-00:25:24
 新しい年が明けた。
 だからと言って、「この一年を〜」などと格別改まるほどの齢でもなし、平素からストレスとかプレッシャーなどと言う高尚?なものとはお付き合いのない暮らし向きの、言うなれば能天気そのもの。
 だが、今年はいささか違う。

 この気分を称するに「閉塞感」なる言葉を用いるのであろうか。どうにもすっきりしない。
 暖冬とのご託宣に反しての豪雪・寒冷に、過ごし易い冬への期待感が消し飛んだのとは、ものが違うとしか言いようのない虚しさの中に居る。

 このグループが生まれる契機になった「老人党宣言」。そこに掲げられたのは「取り敢えずは政権交代」であった。
 因ってきたった多くは「敵失」であったとしても、それが長い不毛の時を越えて現実のものとなったのである。。そこには差し込む朝陽のような清々しさが漂っていてしかるべきものであろうが、現実はどうか。期待していたものとは大いにと言っていいくらい違うの思いを、拭いきれない。

 いつ政権交代が起きても慌てふためかない準備・受け皿として、「影の内閣」なるものも組み、人材をそれぞれに配して態勢を整えて来たのではなかったのか。
 思いもかけない大勝であったとか、年度途中の交代であるとかの理由は要らぬ。前内閣が組んだ補正予算の執行を、一部だが凍結するという見識を示した勢いは何処へと問い直したいような年明けである。

 いかなる進歩発展があろうとも、全てのそもそもは「人」である。
 民主党そのものの人間模様も、右から左まで振幅は大きい。ましてやそれを更に広げたような連立政権。舵取りの難しさは始まる前から分かっていること、それに重ねて「夏の参院選で絶対多数を得ても連立は継続」の言。見ようによっては、国民戦線的政権とも言える陣立て。「排除の論理」などと言う代物は「友愛」とも相容れぬ。
 まさかこの言葉をも含めて「時間の経緯によって考えは変わる」との予防線を張っている訳ではないと思いたい。連立の継続、これは正に「信」そのものであるからだ。
 この予防線とも取れる「変わる」の発言は、自民党的立脚からする憲法改正論者である鳩山総理のその信念を、過去のものにするために用意された言葉でもあると信じたい。
 幸か不幸かなどと言う枕詞は無用として、既に閣僚の交代劇は演じられたのだ。自分のメガネにかなったスタッフかどうかの見極めをつける期間を今国会期間とするぐらいの度胸で、政府に入った人たちの力量の評価に取り組まなければならぬ。
 テレビで目立っていた人が、即、「人材」と言うわけではない。あの顔ぶれで出尽くしだとすれば、寂し過ぎる。当選回数という物差し重用の自縄自縛は、賢者の選ぶ道ではない。

 「政治と金」。この最も大衆受けする課題に対する対処の仕方を自分の言葉で明確に語り、その効果の担保策を提示すること。
 「三党連立政権としての内政・外交方針および政治主導下での党と政府の在り様」を明示すること。
 これらには、当然のこととして「国と地方のあり方」や、国・地方を問わず蔓延っている「天下りの根絶」、「税制のあり方と公財政の巨視的赤字対策」、「米軍基地の縮小と平行しての防衛経費の縮減」などなど、戦後政治からの革命的転換宣言に相応しい内容を三党連立の成果として示して欲しいものである。

 遅れて見た初夢と笑われるのがオチではあろうが、それでもなお正夢をと願う寓居老人である。