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0279 ゆがみ 百山 2009/11/23-00:11:16
 
 あの悪夢から解き放たれて以来、民主主義という珠玉を手にした人々は、「大船」に集い、好天に恵まれればこぞって甲板に繰り出して 移りすぎる景観を愛で、帳が下りれば微塵の揺れもない客室に憩うた。
 この間、「任されたあなた」は、何をしてきたか。安逸慣れした人々の目を覚まさせた「任せるに足らぬ宰相」の連続は、ついに安眠マークからクエッションマークの下へと大勢を移動させた。

 「政治主導」を掲げ、新しく舵取りを任された人たちが着手したことの第一はと指折れば、行政の大相をなす事業の「仕分け」であろう。慣れない手つきではある。また その任に当たっている人たちの適否を問う向きもあろう。だが、それらは些事である。
 これまでの「長すぎる専横」に終止符を打つための黎明である。夜明けは暗黒から始まるのだ。再びの「暗黒の専横」に逆戻りさせないための覚悟と共に、励まし支えなければならぬ。
 始まったばかりの壮大な原点回帰だが、気になることが幾つかある。その第一は「財務省」なる裏方(?)の存在であろう。

 巨大な影響力を端々まで及ぼし、ある意味 「ゆがみ」 造出の主役ともなって「公財政」を差配してきたこの組織。それが差し出す材料・まな板に多くを頼った視野狭窄に陥っているのではないのか。
 「官庁の中の官庁」を自負してきたこの組織は、今ある「ゆがみ」について、その責の多くを負うべき立場にもある。
 しかし、今の状況は、その責に頬被りしての「正義の味方」然である。あるいは言うやも知れぬ。 <我々は認めたくなかった事業>だったと。
 だが、積み上げて差し出してきたものを切る。首を縦に振らない限り、如何に有用と見込まれようとも、決して陽の目を見ることはないという現実。よって、この国における財政支出の結果・その適否の半分は、この大権を振るった側にもあるとみるべきである。
 様々なしがらみ・族議員やらなにやらの横車は、自らにもそれを許した責任があり、「共同正犯」とされても返しようもない内実がある。そしてそれは、また、予算を認められた側と認めた側とが共有し続けることとなる 「成果の発揚」という戻ることの出来ない道へと誘い、ゆがみに歪む。
 このような役回りを担い続けてきた組織が、一夜にして「正義の味方」たりえようか。
 孫悟空などと言うは古すぎると自戒しつつも、宙の果てまで駆けたの自負で書いた「政治主導」の四文字が、この組織の指の一本に記されたでは、漫画にもならぬ。

 それを受けての注文は、「事業仕分け」に入る前に行うべきことがあるということである。
 来年度予算の編成という焦眉の急を前に、取り敢えずはマニフェストの具現・そのための財源見通しという事情は分かる。しかし、「事業」の前にあるのは「事務」である。
 この「事務」の再点検から始めなければならぬ。省庁がその内部組織に割り振った事務の有用性に踏み入った「仕分け」が出発点であろう。それは「橋本行革」の見直しへとも続いていく。

 「天下り団体」の実質は多く事業付帯の事務請負である。この構造下では「事務処理」は複層化し、省庁は事務の大枠を示して契約し、「天下り団体」はその実施段階の事務を分担する。そのための事務処理経費が、何のことはない、天下ったOBたちの人件費となって消えていくのだ。
 省庁そのものについても、定員増・人件費抑制を謳いながら、物件費支弁の人員を雇入れて糊塗するなどは常態化した手法の一つであり、これを容認してきたのも財務省である。
 この大元から始めて、各般に亘る「ゆがみ」の是正に総力を挙げて取り組むこと、行政刷新会議に期待するものは大きいが、さて、果たして。