|
圧勝である。 その帰趨を「勝ち」「負け」と言う言葉で表すに、少なからぬ抵抗感めいたものを抱きつつも、やはりこの世界も単純明快、勝ちは勝ち、負けは負けが似合うところなのかもしれぬ。 だが、前回の「郵政選挙」と合わせ「小選挙区制の特質」がもたらす「民意」表出の有様には、一抹の不安すら覚えた圧勝劇ではあった。
政権交代が頻繁に起きやすいということ、それは常に適度の緊張感の中に「政治」を置き、必然的に情報の公開を当然のこととして政官財の癒着を排し、国民目線の政治をもたらすということ。 さて、新しい政治の仕組みの下で歩み来たったとはいえ、ほとんどを一党に委ねてきたこの国では、「二大政党による政権交代」という絵はうまく描けるのだろうか。
これまでの60余年が酷すぎたとはいえ、変えなければならないことがあまりにも多い。ということは、「頻繁な政権交代」を容易にするための土壌は未だ醸成されていないということである。 小選挙区制に改めたこと自体、覚めた目で見れば「頻繁な政権交代」などの謳い文句とは裏腹に、癒着による利権を武器とした「恒久政権体制の確立」が本当の目的であったと言えないでもない。 この現実を前にして、民主党を中心とする連立政権は、どのような「CHANGE」を我々にもたらそうとするのか。
この国の「政治」は、三権分立を謳った戦後も、一貫してその実質は「行政の掌」の上に有ったと言っても過言ではない。脱官僚依存、政治主導の確立は、最大の転換事であろう。 「国権の最高機関・唯一の立法機関」も、一皮剥けば「行政権は内閣に属し、その内閣は議院内閣制であるが故の、行政が必要とする法律の立法機関」と化して怪しまなかった。 政治主導で法案を作る。そのための体制整備をどうするか。衆参両院にある議院法制局と内閣法制局の在り方を始め政党それぞれが対応べき課題は、喫緊かつ極めて重い。
「友愛」は、「自己責任を基とする市場原理至上」とは明らかに一線を画すものであろう。されば、展開されるであろう施策も、それに裏打ちされ従来型を一掃する視点顕著なものであって欲しいと願う。
それらが大多数の受け入れるところとなって初めて、作為的な選挙制度を乗り越えての「頻繁な政権交代が可能な時代」を迎えたと言えるのではなかろうか。 固唾をのんで船出を見守っている多数の中の一人である。
| |