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0261 4・2・3、眼差しそれぞれに 百山 2009/07/27-00:24:00
 「4・2・3」、はて 何でしょう?。
 今はもう遥か彼方の幼な日の、謎掛け遊びを思い出していただける方々にしか通用しない、古びた「問い」でしょうか。
 「4」は、つかまり歩きが始まる前後までの乳幼児。もうお分かりですね、そう、二足歩行が一大特徴の人間、その「幼・老」の二時期の姿を合わせての、一度しか出せぬお遊びでした。

 今時の子供たちに、「なぞなぞ」などという遊びが受け継がれているかどうかも定かでなくなった「3」の世代だが、その過ごし来たった日々を思い返せば、「2」の時期に入ってもやや暫しの十数年ほどの期間、向こう三軒両隣から更に広げた行動半径の中で注がれた眼差しは、誰彼の別なく一様に温かなものであったように思うし、それにも増して温かく穏やかであったのは、言うまでもなく両親のそれであり、返す自分のそれも 疑いなくそれに応えたものであった。

 情報の伝播速度や手段が桁違いということがあるにしても、単に「時代が変わった」だけではすまされないような、「人の命」にかかわる出来事が多すぎる。人の成長過程のどこかに欠け落ちたものを抱えたままの社会、それに対する反問・反省もないままで、人々は通り過ぎようとしているのではなかろうか。かつての温かな眼差しは、どこへ消えていったのだろうか。
 60年余に及ぶ「2」の時期。そのうちの初期・20年前後はそれを担うための準備期間。それの過ごし方は、今、万全なのだろうか。

 すでに戦後生まれが第一線を退き始めている。その人たちを育て上げた世代、その人たちに育てられ、これからの時代を継ぎゆく世代。それらのどこかに、空ろで冷ややかな眼差しを投げかけられて育てられた時期が、あったのではなかろうか。そして、その土壌は「事なかれ」の風土に、あるのではなかろうか。
 次に掲げるのは、現行学習指導要領・中学社会科の抄である。これに沿った現場の実像は、うかがい知ることも出来ぬことながら、「公民」の基礎的学習の場が、このような「当たり障りのなさ」で覆われているならば、必然的にそれは「事なかれ」に帰結していくのではなかろうか。
   * 日本国憲法の〜〜条文解釈に深入りしないように留意すること。    
   * 〜〜国会,内閣,裁判所の細かな組織や働きについて深入りしないこと。
 「事なかれ」の底にあるもの、それは、決して「温もり」ではない。もとより、きわめて不幸なことながら、国の基である憲法そのものが「解釈改憲」なる手によって汚され尽くしている。
 先の大戦を経て我々が手にした憲法が指し示すものは、平和希求・人権尊重を謳い、国民主権を普遍の原理とし、これに反するは、憲法をも否定するとした前文によって明らかにされている。
 これを踏まえれば、少なくとも憲法には「条文解釈」なる恣意が入り込む余地を残すべきでなく、そのようなものにするための努力は、それを明らかに掲げて、傾注し続けなければならぬ。
 更に言えば、かつては、小学校入学時から「御真影」なるものの尊厳に跪き、それを信じ込まされて来た時代があった。
 それを思えば、講話程度でもよい、小学校にも現憲法の匂いぐらいは漂っていてもよいのではなかろうか。平和・人権への目覚めは、いくら早くても早過ぎるということはない。そこから培われる眼差しは、きっと「人の命」の重さを知った上での、温かく穏やかなものとなるに違いない。

 人の眼差し・目線の向きの上下は、相対的なものである。幼きの目線はいつも上向きであるが、長ずるにつれ、必然的に下方へと変わっていく。「今時の若い者は〜」などは、上向き目線の頃の残像を下敷きにしての言葉である。
 今は上向き視線を浴びる立場に移り来ているとの自覚こそが、「3」の時期を穏やかに過ごす上での一番の要諦であろうかと、分別するこの頃ではある。