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0251 核廃絶、そして更に前へ 百山 2009/05/27-10:37:06
 この地球という惑星に 生命を受けたものは全て、己の種の保存のためには他を排除すべしという宿命を負わされて,生まれ出でたものかも知れぬ。
 それは、動物・植物を問わずそれぞれの生存を賭けて繰り広げられてきた争いの系譜として、今に連なっている。
 人類の歴史とてその例外ではなく、それどころか、厄介なことに唯一「知性」なるものの裏打ちあってのものであるがゆえに、他を圧し勝ち抜くために用いる手段の凄惨さ・残酷さは、時代と共にエスカレートし、止まるところを知らぬかの如くであった。

 しかし今は、最終兵器とも称され、実戦使用されたそれの威力と、与えた惨禍に世界は「人」としてたじろぎ、「破滅への歩み」を「理性の眼」をもって押しとどめようとする機運が、芽生え始めているようにも見える。
 それは、今年4月6日、プラハでのアメリカ合衆国大統領バラク・オバマの、「核のない世界へ」の演説である。

 「人」は、叡なるものであり哲なるものでもある。その証左は、天空遥か遠くに人住む基地を浮かべ、あるいは深海の奥底をも究める。
 更に不遜を重ねれば、自然の定理にも踏み入って、ある種における雌蕊が、雄蕊に比べ高温への耐性が高いことを突き止め、それを利用して品種の改良を進めたり、また、ある種においては、有害なウイルスに侵された樹種の先端 0コンマ数ミリにはウイルスが到達しないということを解明して、そのわずかな部位を顕微鏡を覗きながら切り取ってウイルスフリーの苗木を育成して、有用な種の保存・継承を行ったりもする。
 この種の叡智のもたらす恩恵は、私たちの身辺に満ち溢れている。

 しかし、上記・オバマ演説を受けてのわが国における反応は、いかなものであろうか。それは世界全体の動向がどうこうと言うレベルで論ずべきものでは決してない。
 世界で唯一、核兵器の悲劇の痕跡を印されたわが国は、どのような理由があろうとも、それから逃れたり目を背けたりすることなく、その廃絶の先頭に立ち続けなければならないからだ。
 だが、知る限りでは、ほとんどが「他人事」程度の反応で止まっていたのではないのか。

 もとより、この国のマスコミが「マスゴミ」などと揶揄される姿は、ますます強まっているように思え、「報道」がその使命に忠実であるかについては、悲しくも相当の疑問符を呈しなければならないのではあろうが、「オバマ演説」の示すものに反するような一部政治家(?)等の「核武装論や先制攻撃論」などの報道は見られるものの、2009年4月現在81パーセントにも及ぶ「非核宣言」を掲げる都市の反応についてすら、ひとかけらの報道もなかったのではなかったか。各都市とも、全くの「静観」を決め込んでいたのだろうか。少なくとも候補の時から担ぎ上げていた「小浜市の反応」ぐらいは、フォローして頂きたいものではあった。

 軍備、これほどナンセンスなものはない。これを、お好きな言い回し「平和のためのコスト」などと言って正当化することは、絶対消し去らねばならぬ。隣接する国の核やミサイル、軍事費の伸びを論う前に、自国の姿を客観的に眺めてみよ。その姿を脅威と見るか見ないか、答えは自ずと明らかとしたものであろう。「友好」のためには「軍備」は無用である。

 「オバマ演説」から更に前へ。クラスター爆弾禁止条約の批准に止まらず、軍備全般の縮小に取り組む姿勢をより鮮明にすること、これこそ「平和憲法」を持つこの国の使命。
 衣の下に見え見えの鎧を着けての「国連・安保理」狙いなどは、百年の大計の前には無用のものとする「叡哲な指導者の輩出」を、心から願う老骨である。