| 先週の宮天狗さんのコラムに関して全面的に共感しています。探偵もこの事件のルポは当時において読んでいます。
こうした「冤罪の構図」が日々産出される背景として、日米の司法の根本的な姿勢の違いに触れたいと思います。
1、さて、一応その前提となる知識から述べてみたいと思います。
われわれ法学徒が刑事訴訟で最初に学ぶ要諦としては戦後のつまり憲法の制定以後は戦前のような糾問主義の訴訟から弾劾主義の訴訟へと転換したという原理的な訴訟構造の 転換です。 分かりやすく言えば、戦前の訴訟は国家としての司法は容疑者の犯罪を追及するという裁判だったのが、戦後は容疑者・被告人の容疑を追求する捜査官・国家の代理人の主張が客観的に観て合理的な疑いを抱かせないかどうか公正に 判断する裁判制度「当事者主義」に転換したとされている。 そしてその当事者主義・弾劾主義訴訟はアメリカの制度を 採用したと言うのである。 ここまではどの教科書にも書かれている。 しかしながら、問題はこの先にあるだろう。 こうして戦後の刑事訴訟制度は当事者主義の裁判であり、 アメリカの訴訟制度を模範としたというが、そうした制度の技術面は確かに法典の上では実現されている。ここに問題はない。 しかし、冤罪の構図は宮天狗さんが言われるようにずっと 継続しているのである。 法制度の技術面とか裁判の方法論は確かに改善されていると思う。 だが、肝心要の法制度の精神構造はどうであろうか。 つまり、裁判官が制度の趣旨を活かすべく捜査官の容疑者への追求のやり方を是正しようとしたり、憲法の規定や 刑事訴訟の規定を本当に実現しているかチェックしているのだろうか。
おそらくそうしたチェックは形式的にはともかく実質的には行われていないのがほとんどだろう。
2、アメリカの裁判の底力
ここで、日米の訴訟構造の端的な違いを示すケース(事例)に最近出会えたのでその事例を検討することでいかに 日本の司法制度が「死に体」になっているかを述べたい。
今から半年前に(?)探偵はあるテレビ放送を観ていた。 アメリカの一青年が以前に勤務していたレストランに強盗に入ったが逃走した。ところが、この青年がここから逃走するときに残された犯人の血痕があったため逮捕され裁判で有罪が確定する。
そしてこの青年は服役していたが、ある大学の教授に「僕は無実なのですがDNA鑑定に間違いがあるのではないでしょうか」お願いですから調査してくださいという手紙を 送ったところこの教授の再鑑定の結果青年の無実が明らかになったというものだった(テレビの報道がこの通りだったかは今資料が手元にないので疑問を留保します。)。
このアメリカの事例で一番重要な論点は裁判官がこの大学教授の再鑑定の意見を証拠として採用したところであると 思う。 日本の司法制度であれば裁判官は捜査官の提出証拠を絶対的に信用してしまい、DNAの再鑑定に応じなかったであろう。 この日米の司法の態度の違いがこのケースから浮き彫りになる。 つまり、アメリカの裁判官は被告人の無罪推定の原則;権利に忠実であり、その権利の保障のためにはどういう証拠でも採用しようというオープンな態度をキープしているのである。 ところが日本の司法官は官僚としての姿勢を崩さずに法律の字面に拘泥し閉鎖的な態度をとり続けるのである。
最初の問いにもどろう。 日本の訴訟制度の構造転換(糾問主義から弾劾主義へ)が あったとされるが、それは書物の中の話しであり、こうした精神構造の転換や哲学の問題は学問の中にしか存在しないのである。 訴訟の実態は裁判が官僚としての事務処理手続きの中に埋没しており、当事者主義の訴訟は顕在化せず、潜在しているにすぎないのであると思われる。 以上。
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