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0241 憲法21条(表現の自由)と刑法175条(わいせつ罪) 名無しの探偵 2009/03/16-19:06:28
現行刑法175条はわいせつな文書の頒布を禁止しているがこの法律は明治時代に制定されたものであり、戦後の新憲法では表現の自由が保障され同条文では検閲を禁止することになった。
この表現の自由が保障された後の昭和25年にDHローレンスの著作「チャタレー夫人の恋人」を戦前から翻訳していた伊藤整は小山書店から新たに翻訳出版したのである。
ところが、この翻訳した本が刑法175条のわいせつな文書として起訴されることになり、裁判が開始される。
当然に戦前のような出版事情(出版法が存在し内務省による検閲体制が確立していた)は除去されており(GHQの
指導による)表現の自由と検閲の禁止が確立していたのであるから刑法175条だけが頼りだった検察側に勝訴の見込みは少ないはずであると現在(2009年)では推測されるのであるが。
しかし、最後の裁判である最高裁は1957年(昭和32)3月13日、二審判決を支持して上告を棄却、両名の
(伊藤整、小山書店の社長)有罪が確定する。

この事件(チャタレー裁判)を機軸にして表現の自由と刑法175条(わいせつ文書の頒布等)を検証してみようと
思う。

新憲法が制定された直後に近い昭和25年は司法関係者や
警察の担当者はほとんどが戦前の「取り締まり」を行ってきたベテランたちと言ってよく表向きの「価値観の変動」
はあったが心の底で新憲法の理念である表現の自由や検閲の禁止をどこまで配慮しようとしていたのかは疑問である。
そうした状況で7年に及ぶ裁判(最近伊藤整著「裁判」が
晶文社から発行されている)が始まったが、主任弁護人は
当時有名な正木ひろしであり、被告側で証言したのは当時
著名な文人(中島健三など)が多数である。
正木弁護士以外の法曹関係者ヤ大学教授は被告側には少なかったのではないだろうか。私が思うに法曹や法律学者という人たちは新憲法の理念よりも老舗の法典(民法や刑法)にしがみつく人種ではないのかという思惑があるからである。
その証拠に未だに民法や刑法の条文で憲法の精神に反する
ものを温存していることがあげられる。
このような法曹の基本的な性格を睨んで「刑法175条の解釈」をまず検証する。
その前に「チャタレー夫人の恋人」という著作はいかなる
内容であったのかを紹介しよう。
この本はDHローレンス(イギリスの作家)が大戦で下半身の自由を失ったチャタレーの夫人コニイの性愛を描いた作品である。特に森番の男との情事を赤裸々に描写した箇所が「わいせつ文書」に該当するとして起訴されたのである。
裁判所は戦前から175条の原則要件を判例として確立しており、それによると、わいせつとは「徒に性感を興奮または刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な善良な性的道義観念に反するもの」と定義する(最高裁
判決昭和26年5月10日)。

こう定義されても普通人には具体的にはわいせつとはなんぞやという問題は分かったようで分からない。もっと分かりやすく言い換えれば「性行為非公然性」の原則と言えば
了解できる。(「近代文壇事件史」160ぺーじ柘植光彦
の説明によった)

しかしながら、刑法は戦後の解釈論の判断枠組みでは基本的にその保護法益を国民の守るべき道義心ではなく具体的な利益例えば権利などに求めるのであり、上記のような「
性的羞恥心」や「性的な道義観念」を守るところに処罰根拠を求める裁判所の判断は憲法の理念である「表現の自由」を予め制限する論理であり、これは「裁判による検閲」に近いのではないだろうか。
そして、実際に検察側は表現の自由などの基本的な人権を
制約する憲法上の基準を憲法13条の「公共の福祉」に依拠しているのである。(チャタレー裁判での検察側の論告)
しかし、憲法13条の「公共の福祉」を安易に基本的人権の制約根拠にすると表現の自由は制限する国家の都合でどうにでもなるのである。「公共の福祉」になんらの具体的な判断基準は言及されておらず無内容に近い言葉であるからだ。
それは「戦前の出版法」で判断基準とされた「安寧秩序を妨害し又は風俗を壊乱するものと認められる文書」と同じ内容ではないという保障は何もないのである。

こうして、現在から当時を振り返れば最高裁を頂点とする
裁判所が国民の基本的人権を制約する根拠として「公共の福祉」という無内容な原理を使用した最初の判例だったのでないだろうか。
「わいせつ」な文書を取り締まるという当局の論理(戦前から一貫する刑法175条の適用と解釈であり、そこには
新憲法の理念などは紙に書かれた理念にすぎないという思考しかない)を擁護する憲法の新解釈がすでに始まっているのでないか。

当時、この「裁判」をめぐって「芸術かわいせつか」といメディアでの攻防戦が存在したが、最高裁は」「芸術とわいせつは共存する」という判断を示したが、1980年以後の判例では「芸術性が高ければわいせつ性は昇華することもある」という判断基準に変更したとされている(「悪徳の栄え」事件の判例以後)。

そして、現在は「チャタレー裁判」のようなわいせつ文書の頒布禁止は起こらないだろうと言われる。果たしてそうだろうか。
裁判所が刑法175条の処罰根拠を具体的な法益の保護ではなく国民の性的道義観念や性的羞恥心に求める限りでは
「新憲法」の理念である表現の自由はそうした国家の求める道義に譲歩せざるをえず、表現の自由が「最大の尊重」
(憲法13条)を受けることはないのである。
表現の自由などの精神的な自由権は国民の道義心によって
制約される性格の権利ではありえないからである。
性的な活動は予め裁判官に決定され道義心で制約できるのであれば表現の自由などを保障する意味はないといって良く、わいせつの定義を裁判所が変えない限り憲法よりも刑法の基準が常に優先するといえるであろう。

「チャタレー裁判」のゆくえは未だ決着がついたとは到底いえないのである。
               以上。