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0240 東京大空襲 宮天狗 2009/03/09-13:15:55
 連日繰り返された空襲の中でも、最大の惨禍をもたらした1945年3月10日の東京大空襲から早くも64年の歳月が流れ、それを記憶する人は刻々と減っています。そのような事実があったことさえ知らない人がほとんどになりました。しつこいようですが改めて当時を振り返ってみたいと思います。

 空襲から2,3日経って日暮里駅の橋の上から浅草方面を眺めると、見渡す限り廃墟となった街の向こうに、国際劇場の大きな白い壁だけがぽつんと残っていました。ここに住んでいた人々は、大切な物も思い出も、中には命まで失ってしまった。無念の情が当てもなくさまよっている気配に、私と友はしばし言葉もなく立ちすくむばかりでした。そして明日はわが身の不吉な予感も・・。

 4月13日の夜、ラジオの「関東海面警戒警報発令」の報に飛び起きました。この警報が出たと
きは大空襲の可能性が高い。ついに来るべきものが来た感じで、手当たり次第食べ物をかき集め、着られるものはすべて着て、達磨さんみたいになって母と一緒に防空壕へ。日記帳や写真など貴重なものがあったはずなのに、頭の中は衣食しかなかったのは、生きる本能とでも言うべきでしょうか。

 案の定しばらくすると空襲警報が発令され、B29特有の不気味な爆音が響き始めると「逃げろ!」と声がかかり、あわてて近所の公園に。途中でぽんぽんと石でも落ちるように焼夷弾が降り注ぎ、肝を冷やしたもののなんとか無事でした。あの時防空壕を出るのが少しでも遅れたら、きっと蒸し焼きになっていただろうし、弾がちょっと外れたら頭が木っ端微塵になっていたに違いない。生と死の境界なんてほんとに微妙なんですね。今は死を遠くに置き去りにしてしまったために、訳の分からない殺人が起こるような気がします。

 燃えやすい木造の日本家屋に注目して、焼夷弾による冷酷非情な無差別爆撃を計画したカーチス・ルメイ少将は「この空襲が成功すれば、戦争は間もなく終結する。日本降伏を促す手段は火災しかなかった」。トルーマン大統領の原爆投下の理由も似たようなもの。戦争はすべてを正当化してしまうのです。