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0237 知ることと連らなること 2009/02/10-15:48:11
私は三里塚の問題が大きく報道されていた頃、育児に多くの時間を割いていた。その頃、農薬や添加物がクローズアップされ、育児指導は母乳よりもミルクの与え方に時間が割かれ、予防接種の問題が言われ…と、それなりに育児をめぐる問題を考えていた時でもあり、仕事も頭もその方向だった。

三里塚闘争の報道が流れると、一瞬は土地を取られる農民を気の毒に思っても、すぐに忘れた。そして海外に行く機会があれば成田空港を利用し、その折には三里塚闘争への思いは頭を過ぎらなかった。

サロン・ド・朔に場所を提供してくださっている三角さんが出版された『農地収奪を阻む 三里塚農民怒りの43年』(萩原進著)を手にしながら思ったのは「困ったなぁ」だった。あまりにも問題の外側から、つまりニュースとして報道されることしか知らなかったからだ。それに新左翼の暴力的な闘争には疑問と嫌悪を感じていた。

本を読み始めると、国の方針に振り回され、国に嘘を付かれ続けた農民の姿が立ち現れてきた。これでは怒って当然だ。三里塚は「国民に誠実であったかどうか」を、国に突きつける問題として存在していた。

世界にも日本にも様々な問題が存在する。日本では失業に苦しむ人が増え、母子家庭が手当てを削られて生活に困難を来たし、リハビリ制限に困り果てる障害者、行き場の無い高齢者等々、きりなくある。こうした問題の多さにたじろいでしまう。せめて寄付をと思っても限りがある。結局は、たまたま人生の中で関わりを持ったところで動くしかないのだろうと思う。

東京新聞の「本音のコラム」に山口二郎氏が、NPOの若い指導者が「政治が悪い、役所がとろいと文句を行っても始まらないので、まず自分で動いて目の前の困っている人に手をさしのべた」(略)「その身軽さがまぶしかった」と評価しながらも、「政治は頼りにならないと言っても、やはりみんなで監視し、注文をつけなければ、私たち自身が間違った政策によって苦しむことになる。(略)社会活動と政治参加は車の両輪である」と書いていた。

社会活動は関わったところで活動するので精一杯になってしまう、身は1つしかない。しかし、三里塚も、育児も、障害者も、失業問題も、全て、国民の方を向いて誠実な政治をして欲しいと求めるところで、共に連なっていけるのだと思う。今の政治が国民に対して誠実かどうかを問う時、麻生首相の国会答弁は虚しい。