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0233 年の初めに 百山 2009/01/12-00:11:32
 12ヶ月を送って、また、新しい年が巡ってきた。
時の流れを一年と区切って見やる時、過ぎ去った一年を振り返るよりは、これから迎える日々の方が遥かに大切なことは、敢えて言うまでもないこと。過去は教えの宝庫だが、それを生かすも殺すもその全ては、無限に広がるこれからの過ぎ行く時に委ねられているのだから。

 区切りの日を越えて もう10日余。
 流れる二ユースに新味を求めることそれ自体が夢と笑われそうなご時勢だが、おや?と斜め読みの目を止めさせる記事に出くわす。「核兵器全廃目指す」(オバマ陣営のシャーマン氏)と。
 シャーマン氏とは、オバマ次期大統領の政権移行チームで、国務省の組織見直し作業を統括した人。
 Oh、Change!と読み進めれば、何のことはない「北朝鮮の核兵器は、各施設の無能力化に止まらず、開発能力そのものをなくし、全廃しなければならない」というもの。
 その記事では、氏は自国も核実験の凍結方針を堅持しなければならないとし、私見ではあるが上院において未だ批准されていない包括的核実験禁止条約の批准について、行動を起こすべきと述べたとある。
 しかし、同じ紙面の別項の記事では、アメリカ軍の核兵器管理態勢を再検討する国防総省の諮問委員会・シュレシンジャー委員長(元国防長官)は、同委員会の第二回報告書の提出に際しての記者会見で、次のように述べた と報じている。
 米国の<核の傘>で守られている三十数カ国のうち、五、六カ国は自前で核兵器を造り出すことが可能であり、米国の<核の傘>の強さと信頼性こそが、拡散・核保有国増の防止には必要だと。 
 これは、米国は絶対に核兵器を手放さぬ。そう言明しているに等しい。核兵器という悪魔と肩を組んだ国は、増えこそすれ減っていくことは絶対にないのかと、年明け早々暗然とする。

 年末、某テレビ局が放映した映像を思い出す。途中からだったので詳しいことは分からぬままだが、多分、原爆投下機の乗員だったアメリカ人なのだろう、広島を訪れ 資料館の展示を見、被爆した男女二人の市民と対面した様子が映し出されていた。
 番組は、対面時に市民側が期待していた謝罪の言葉が、最後まで拒絶されたことに対する言いようのない二人の気持ちを漂わせつつ終ったが、その情景が、資料館を訪れた時のアメリカ人が語った感想「良い展示だった」にオーバーラップする。
 「良い展示だった」とは、「自国の、そして投下した核兵器の、両者の威力を示すのに良い展示だった」なのではなかったかと。

 「力」の信奉は、際限のない強化・拡張競争を必然とさせ、その世界では「人間が持つべき慈しみの心」は、完全に排除される。
 事実上不問とされ退職した自衛隊・最高幹部の、その後の某テレビ番組での発言に慄然とする。「力の優位こそ安全保障の要、アメリカ軍の核ミサイル発射権も譲り受けるべきだ」と。さらに彼は言葉を継ぐ。「国を守る使命を負わせている彼らに報いる、法制上の地位を」。
 かつては、「小型核兵器保有論」まで飛び出したこの国。今は「私の考えは、隊員の90パーセント以上に支持される」と嘯く元最高幹部が居る。

 「文民統制」を空洞化させないための権能は、一に「永田町」にあり、それは、国民生活の安定・向上と並び立つ、最も心砕くべき責務である。
 「国権の最高機関」の名に恥じない「自覚」に満ち溢れた人の行き来する場であれと、彼ら・彼女らに踏まれ続けている赤絨毯は、きっと強く願っているに違いない。